2008年8月31日日曜日

最も過酷な季節

 ラッセル・ベイカーのコラム「オブザーバー」(新庄哲夫訳)は、日本で容認されるユーモアの限界だろう。「化学を勉強し始めて三週間後に、もうクラスメートより六ヶ月も遅れてしまった」というディケンズ風語り口は日本に受け入れられないのだろうか(アメリカの限界は、マイク・ロイコ、アート・バックウォルドを参照のこと)

 九月の第三週は、学校に通っている子供たちにとっていつも嫌な時期である。その頃になると、教育のロマン、つまり新しい教科書、新任の先生、まだおろしていない万年筆、インクのしみ、わけのわからぬ数学の公式でまだ汚れていないノートなどに誘発された新学期の興奮が冷め、現実に屈するようになる。

 しからば、その現実とは何か。認識である。夏休みが再び巡ってくるまであと延々と九ヶ月もあるという認識。地理の先生が自分を嫌っているという認識。体育の先生に体格がぶざまだと思われているという認識。必修科目のうち少なくとも三科目は絶対に理解できそうもなく、何ヶ月もひどく苦しんだあげく、自分が落ちこぼれていくのを記録する落第点Fの泥沼にはまってしまうという認識だ。

 あれはジェーン・シェパードだったと思うが、その話によると、化学を勉強し始めて三週間後に、もうクラスメートより六ヶ月も遅れてしまったそうだ。これはよくある経験で、こうした焦燥感、自分はいつも出走ゲートに閉じ込められているのに、クラスメートはバックストレッチに向って疾走しているという感じなのだけれど、これは多くの人に終生消えない傷跡を残す。

 知り合いのある御婦人などは、経済的には恵まれているにもかかわらず、今なお頑にイタリアに足を踏み入れようとはしない。というのも、ラテン語の授業を三週間受けたのち、彼女はesseという動詞を、あのキケロが満足のいくように活用させることは決してできないと気付いたからである。もはやローマでキケロと出くわす恐れはないと保証しても、彼女の慰めにはならなかった。イタリア半島といえば、自分の屈辱を連想してしまうのである。

 私はといえば、ずっとドイツを敬遠してきた。十年生の時、ドイツ語には定冠詞の言い方が二ダースもあることを発見して以来である。もっとも、これは私の思い違いかもしれない。なにしろドイツ語で何から何まで間違えてばかりいたのだから。それでも一つの事実だけは歴然としている。九月の第三周にまつわる記憶なのだけれど、級友たちは、対格の中性複数形の定冠詞が求められている時に、与格の女性複数形を使う癖が私にあるのをからかい出した、この記憶は、ドイツと私の間に生涯越えられない壁を打ち立てた。

 学校側は認めようとしないが、全ての生徒に同じペースで学ぶように要求するのは馬鹿げている。学校はある仮定の下に授業を進める。つまり、クラス全員の頭脳が同じ瞬間に二項定理をしっかり理解し、次のコーナーで待つ直角三角形の斜辺の二乗に関する盛りだくさんのお楽しみ課題に、同時に進む用意ができているはずだというのである。

 数学で先生の期待によく応えた読者なら、以上のことから推し量って、私の数学の進み具合はひどく鈍かったと判断されるだろう。もしかして、本当はまず直角三角形のことをマスターしてから二項定理に進むべきだったとしても。実をいうと、私はどちらも理解できず、まったく途方に来れて、コサインとセカントに進んだ時には大混乱をきたしてしまった。

 おそらくこうなったのも、その昔、九月の第三週に、先生が9かける6は54を私が理解したと誤解し、先を急いで9かける8は77とかなんとか私に思い込ませたせいである。

 だれでもたいてい生い立ちのどこかで恐ろしい九月の第三週を経験している。もし精神科医が子供時代の体験をリビドーで解釈する際にもう少し視野を広げるならば、成人ノイローゼの新しい源泉がここにふんだんにあることに気付くはずだ。

 私の人生を狂わせた九月の第三週こそ、きょう、私が優秀な原子物理学者になっていない原因である。白状すると、若い自分は日曜日版のエッセイを打ち出すタイプライターたたきになるつもりはなかった。科学のロマンに取り付かれていた私は、アインシュタインから松明を受け継ぎ、後世に伝えることを熱望した。

 こうして私は物理の授業に出た。九月の第一周は胸がわくわくした。教科書が配られ、先生はアイザック・ニュートンとリンゴについて語り、人類発展のフロンティアである実験の手ほどきをしてくれた。二週目にはエルグを手ほどきしてくれた。エルグとはすこぶるうまくいった。エルグなしでは、ブロック材も傾斜路の邪悪な摩擦に打ち勝ち、意気揚々と斜面を登ることはできないのである。

 その週の終わりに先生はダインを手ほどきしてくれたが、それは余計なことのように思えた。私はダインを理解できなかったわけではない。理解しようと思えばできた。理解できなかったのは、すでにエルグがあるのになぜダインも必要なのかという点であった。

 第三週の月曜日になっても、わたしはまだこの形而上学的問題に頭を悩ませていたが、先生はクラス全体がもうダインをしっかり理解したものと決めてかかっており、センチメートルに突き進んだ。ひょっとしたら、ただのミリメートルだったかもしれない。そのあたりのことになるとあやふやである。現実がにわかにぼやけていったからだ。

 混乱したのは、私がまだだいんについて深い疑問を抱いているのに、ダインが理解されたとしてセンチメートルと取り組めと求められたためであった。次の日は更にひどかった。ミリグラムを習う日だった。その次の日にはテストもあった。

 驚いたことに、まだダインで頭を悩まされていたにもかかわらず、エルグだのダインだのセンチメートルだのミリグラムなどと取り組めと要求するのは無茶だと、クラスメートは抗議の叫びを一つあげるでもなくテストを受けたのであった。クラス一同は抗議するどころか、ほとんどがテストに簡単にパスした。私はエルグに関係した問題以外はすべて間違えた。以後その学年は悪夢であった。そして世界はなお、アインシュタインの後継者に相応しい人物の出現を待っているのである。

 

2008年8月30日土曜日

さようならVIP

 ブッシュ氏が米大統領選に敗れた年の終わりに、「去る」人に焦点を当てた特集記事の一部である。観察力は取材力である。とはいえ、このライター、どこでブッシュ氏を見つめていたのだろうか。

 ソ連邦崩壊による冷戦終結で唯一の超大国として残ったアメリカでは、12年間続いた共和党政権が、新たな国家目標を模索する国民の批判の前に倒れた。

 劣勢の中、最後まで勝利を信じて疑わなかったジョージ・ブッシュ(68)は、必死に敗北のショックに耐えていたが、選挙から1週間後、ロバート・ドール上院院内総務の開いた慰労パーティーで一瞬感情を激発させた。

 演説にたったブッシュ氏は「しばらく休みをとり、自分の置かれた現実と、これからのことを考えたい」と話していたが、突然選挙での敗北に触れ、「痛烈に心の痛む巨大な敗北だった」と初めて苦悩と心痛を吐露した。席に戻ってからもドール氏の感傷的演説に顔を両手で覆い、涙をぬぐった。

 その日の深夜、ブッシュ氏は突然側近を呼び、「だれも連れずにベトナム戦没者慰霊碑に行く」と告げた。ベテランズ・デー(復員軍人の日)の当夜、ベトナム慰霊碑では夜通し5万8000人の戦没者の名前を読み上げる儀式が続いていた。

 革ジャン姿のブッシュ氏はバーバラ夫人を伴い、慰霊碑の前で復員兵に交じって名前の読み上げに加わった。

 マッカーシー旋風の赤狩りと戦ったプレスコット・ブッシュ上院議員の二男として誇り高く育てられたブッシュ氏に、大統領選の敗北は耐え難いほどの苦痛だったと思われる。ソマリアへの突然の人道派兵決定は、湾岸戦争以来唯一の超大国としての覇権と影響力を保持することに最大の努力を払ったブッシュ氏の”遺言”であり、大みそから元日にかけてのソマリア視察はその傷ついた心をいやすための旅に違いない。

 

2008年8月27日水曜日

東京ビートルズ−お父さんも歌っていた

 わが国で最初のビートルズのコピーバンド「東京ビートルズ」を描いた連載記事の1回目。戦後50年企画の一環として掲載された。平和な現代社会から恥ずべき過去へ遡るシーンを、娘の視点を通して劇的に仕立てた。現在の父を印象的に表した書き出しは、ちょっと思いつかない。

 父はカラスが嫌いだ。

 庭の菜園でキュウリやナスをつくっている。ところが、実がなると、カラスがくわえて行ってしまう。いつも、父は、うらめしそうに空を見上げている。

 父…斎藤峻。49歳。音楽事務所経営

 私が小学生のころ、父は忙しくて、あまり家にいなかった。有名な歌手のマネジャーをしていた。

 私…斎藤絵理。23歳。峻の長女。23歳

 ある日、遊びに来た父の友達から、こんなことを聞いた。「絵理ちゃんのお父さんも昔、歌っていたんだよ。東京ビートルズというバンドで」。でも、それが何を意味するのか、当時は、よく分からなかった。

 そのころ、3つ上の兄がたんすの一番上の引き出しに隠してあった厚紙の箱を見つけた。青いシートレコードが10枚入っていた。私たちが手裏剣のように飛ばして遊んでいたら、母にこっぴどく怒られた。

 いま思うと、それは、父が歌っていたという東京ビートルズのシートレコードだったのかもしれない。

 その後、わが家では、東京ビートルズは忘れ去られていた。それが、去年の11月、記憶の隅から強引に引き戻されたのだった。

 自分の部屋のラジカセで、ぼんやりとFMを聞いていた。「続いてのナンバーは東京ビートルズの『抱きしめたい』」。一瞬、放心した後、私は「お父さんだ」と叫んで居間へ走った。

 テレビを見ていた父の腕を取ってラジカセの前に連れて行った。とたんに、父は顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。一緒について来た母はおなかを抱えて笑い出した。

 お前の冷たいそぶり 気も狂いそうな俺さ 俺さ 俺さ

 本物のビートルズの「抱きしめたい」をコピーした、その歌は、赤面するほどへたくそだった。なにしろ、歌詞が日本語なのだ。

 照れて私の目を見られなくなった父の横顔は、その時、30年前、白いトレーニングウエアを着てジャズ喫茶で歌っていた東京ビートルズの「斎藤タカシ」にタイムスリップしていた。

 ■東京ビートルズとは(復刻CD発売時の紹介記事より)
 「東京ビートルズ」を知ってますか?英国のビートルズの曲を、日本語歌詞で歌うという、いい根性をしたバンドである。1964年に結成、ジャズ喫茶やテレビで活躍した。
 「謎健児」なる訳詞者が書く歌詞がものすごい。例えば、名曲「抱きしめたい」は「お前の冷たいそぶり/気も狂いそうな俺さ俺さ俺さ」。「キャント・バイ・ミー・ラブ」は「買いたい時にゃ金出しゃ買える/スカシた色の 車も買える/それでも買えない 友だちだけは」となる。頭がクラクラしそうな曲が、堂々とCDで復活する。AMラジオで流したところ、大好評で「東京ビートルズコーナー」までできてしまったというから、世の中わからない。

トップクオークを確認

 1面トップになる記事のリード部分には、ふさわしい格調が求められる。一度、声に出して読んでみてほしい。高らかに打ち上げた文章には、ただうなるほかない。

 万物を形づくる基本粒子のうち、ただ一つ観測の網にかからなかった「トップクオーク」の存在を、米国、日本、イタリアを中心とする研究グループが、米イリノイ州のフェルミ国立加速器研究所の粒子加速器で確認した。来週にも公式に発表する模様だ。この報告で、物質の根源を探ってきた今世紀の物理学で、最後まで残された大きな「宿題」が解決することになる。ただ、今回は数少ない現象をもとに解析を工夫して得た結論のため、今後、より強大な加速器によって、さらに明白な証拠探しが求められることになろう。

 欧州の物理学会に電子メールで広まっている情報などを総合すると、グループは、高速の陽子と反陽子とが衝突して起こる現象に、トップクオークと見られる粒子が介在している有力証拠をつかんだ。その粒子の質量は、1740億電子ボルト前後。陽子の180余倍もの大きさになる。

 グループが近く出す論文の題名には「トップクオークの証拠」という言葉を使う意向といわれる。「トップクオークの存在をうかがわせる現象」などの表現を使わず「証拠」という言葉を使うことは、グループが発見に深い自信を持っていることを物語る。

 日本からは、文部省高エネルギー物理学研究所、筑波大、大阪市立大などの研究者が参加している。

 グループは、同研究所の粒子加速器「テバトロン」で、高速の陽子と反陽子を衝突させ、さまざまな粒子が生まれたり消えたりする現象を「CDF」と呼ぶ検出器で観測した。1992年8月から93年5月までの実験の結果、トップクオークが生まれて、すぐに壊れた場合に見えると予想される現象が、約10例観測されたとされる。

 似た現象は他の粒子によっても起こりうるため、すべてがトップクオークとはいえないが、全く関係しないで、この現象がこれだけ起こる確率はきわめて低く、「トップクオークが存在する証拠」と結論した。
 
 クオークの確認は、77年の5番目の「ボトム」以来17年ぶり。現代物理学の基本である素粒子の標準理論の正しさを裏付ける大きな節目になる。クオークは、陽子や中性子、中間子などを構成する基本粒子。日本の小林誠・高エネルギー物理学研究所教授、益川敏英・京大教授が「少なくとも6個ある」とする理論を築き、うち5種類が実験で見つかっていた。

 一方、電子やニュートリノなど「レプトン」と呼ばれる軽い基本粒子も6個あることから、空白のトップクオークの部分も必ず埋まると、ほとんどの物理学者が確信していた。しかし、世界のほかの装置では衝突エネルギーが足りず、観測できなかった。

 

2008年8月26日火曜日

安手なショー

 もう何もいわず、読んでみてくれ。

 高校文化祭で、ポルノ騒動があった。都立代々木高校の生徒たちがポルノ上映を強行しようとしたが、先生が電源を切って、上映1分で中止されたという。

 性道徳について、日本も世界も自由化の大勢にある。なかには行きすぎと思えることがあるにしても、逆にいえば、昔の性道徳が不正直で、偽善に満ちていたことを思い起こす必要がある。性についての謹厳なお説教をする表情の下にかくれて、女性を道具として非人間的に取り扱ってきた事実を否定するのは、なかなかむずかしいことだ。

 「ポルノ」というといかにも事新しいように聞こえるが、実はホコリだらけ、相変わらずの人間蔑視観に支えられているものが大部分ではないのか。もう一つの問題は、これほどセックス物がはんらんしている世間で、子どもだけを無菌状態に封じ込めておくのは至難だという現実論がある。

 むしろ色気違いのような世相にまけず、子どもが年相応にしっかりした考えを持ってほしい、と親たちは願っている。しかし、だからといって高校文化祭でポルノ映画を上映することに賛成する気にはとてもなれない。この高校は三部制で、生徒の三分の二が18歳以上だというのが自主興行派の言い分らしい。

 では残りの三分の一の友人を締め出すつもりだったとすれば、若者のたちの連帯、友情、優しさは、どこに消えてしまったのか。それに他人のつくったポルノ映画を持ち込んで、売り物にしようという気持ちもわからない。たとえささやかであっても、自分たちで作り出したものが、自分たちの文化祭ではないか。

 「借り物の文化祭」ならば、やめた方がよろしかろう。この安手のショーに、一般生徒が批判の声をあげたと知って、うれしかった。主催者のいう「視野を広めるため」ならば、うす汚い大人の真似ごとより、やるべきことはたくさんある。

毎日新聞本社の発砲

 94年9月の毎日新聞本社に対する発砲事件発生時の社会面記事。人の話でつなぐというオーソドックスなスタイルで、発生の様子を視覚的に再現してみせた。位置関係はじめ基本的な現場情報も的確に織り込んでいる。

 また、報道機関に銃口が向けられた。22日夕、毎日新聞東京本社で起きた発砲事件。「編集長出せ」と怒鳴った男が、社員らの眼前で、いきなり短銃を3発発射した。現場には、住友銀行名古屋支店長射殺事件の記事などを載せた「サンデー毎日」の最新号が落ちていた。警視庁は同誌の報道内容に不満を持つ者の犯行と見ている。毎日新聞社側は「暴力には断固とした態度で臨む」と話している。

 3階でエレベーターから降りた男性社員は,社員食堂の前で,男が立ち止まって,ブツブツ言っているのに気がついた。つるつる頭に、口ひげ。「変な男だな」。その横を通り過ぎ、出版局に向かった直後、背後で「パーン」という音がした。

 振り向くと、男が腰のあたりに両手で短銃を構えていた。あわてて出版局へ駆け込む途中、2度目の銃声を聞いた。

 食堂を経営する「毎日食堂」専務の男性(56)は、現場のすぐわきの喫茶室にいた。

 「食堂の入り口のところに、映画に出てくるヤクザのような、ずんぐりした男が両手でピストルを構えていた。2発目は、弾丸がはねたようなカチンという音がした。目の前でこんなのを見るとは」

 当時、喫茶室は営業終了後で、室内には食堂従業員が数人いた。「命が危ないと思って床に伏せた」「『編集長出せ』という声を聞いた人もいる」と口々に話した。

 食堂の向かいにある労組書記局にも、数人がいた。「者が壊れるような音」にドアのすき間から廊下を見た人は、短銃を構えている男に、あわてて部屋の奥に隠れたという。

 事件前、『サンデー毎日』編集部に電話がかかっていた。「編集長に言いたいことがある。不満がある。すぐ行く」。電話は一方的に切れた。男が姿を見せたのは、その直後だった。

 事件後、編集部では部員たちが、発砲事件のニュースに見入っていた。ある部員は「うちの記事が刺激したとも思えないが…」と首をかしげた。

 毎日新聞のあるビルは、地下2階で地下鉄東西線竹橋駅につながっている。改札口の目の前が同社の入り口。その横には警備員ひとりが常駐しているが、社内への出入りはノーチェックに近い。受付や保安課のある1階には、洋品店などの店舗もあり、だれでも自由にエレベーターに乗れる。現場の床には、天井から跳ね返ったと見られる弾丸が転がっていた。


2008年8月21日木曜日

妻が女児出産、入院中 自宅で夫刺殺される

 ニュースを前に書く、いわゆる逆三角形が新聞記事の約束。どこまで使うかは編集者の裁量だが、第三段落をボツる人はたぶんいない。

  23日午前9時50分ごろ、東京都葛飾区新宿、アパート102号室で、同室の会社員(25)が胸を刺されて死んでいるのを、訪ねてきた親類が見つけた。警視庁捜査一課と亀有署は殺人事件と断定,特捜本部を設置した。
 
 調べによると、会社員は左胸を正面から数カ所刺され,布団の上にうつぶせになって倒れていた。顔に白いタオルがかぶせられ,ネクタイは着けたままだった。部屋には空になった財布が放置され、家具の引き出しなどを物色した跡もあった。しかし、同本部では争った跡がないことなどから、顔見知りの犯行の可能性もあると見ている。

 会社員は妻(24)と2人暮らしで、妻は20日に長女を出産して入院中。長女の名前は24日に決めることになっており、机の上に残された紙には、会社員らしい筆跡で、女の子の名前が幾つも書かれてあった。

2008年8月15日金曜日

パリの日本人ギャルソン

 「パリの有名カフェが初めて採用した外国人ギャルソン」という人物紹介。スタイリッシュな人物はスタイリッシュに、ニヒルな男はニヒルに、ふざけた野郎は負けないくらいふざけて描く筆力が必要だ。

 擬翻訳とでも呼ぶべき表現(伝統を終わらせた、右の指先は賢くなった)でパリの雰囲気を醸し出し、論理(だから、のでなど)や野暮な情報(年収は同世代の商社マンを上回る)を巧みに避ける。「流れるような身のこなし」を描く映画的カメラワークにも注目すべきだろう。

 ピカソやサルトルが愛したカフェ・ド・フロール。自由で開放的な伝統とは裏腹に、常勤のギャルソンは「右利きのフランス人のみ」といわれてきた。定員は20人。最長老が四月に引退し、控えから昇格した日本人が19世紀からの伝統を終わらせた。

 青山学院大にいた96年、表参道に進出したフロールにアルバイトで入った。大手商社への就職はかなわなかったが、5年続けたギャルソンの身のこなしは作家が書くまでに。パリで勝負したいという思いを本店が受け止め、3年7月からエクストラ(予備要員)で技をみせる機会を得た。

 左手の盆に飲み物やグラスを満載し、テーブルの森を回遊する。客をかわす時、盆を支える指が動いてバランスをとる。右手は伝票を配り、10のポケットから瞬時に釣り銭をつまみ出す。左腕は太く、右の指先は賢くなった。

 「たぶん脳は使わない。段取りなど考えず、肉体が無駄なく流れるのが快感です」

 サービス業よりスポーツ選手に近い。あとはホストとソムリエの要素が少し。常連客がタバコを挟む手を知り、灰皿の位置が決まる。終業時、その日接客した約百組の注文を復唱できる。10−20卓をまかされ、飲食代の15%とチップが全収入。同世代の商社マンより豊かかもしれない。

 「観光客には昼のテラスが人気ですが、常連が増える夜の室内席が好き。この店本来の、濃い空気がある」

2008年8月14日木曜日

五輪讃歌

 五輪開会式は美文調で理念を歌い上げる、現在のジャーナリズムでは稀な機会だ。その是非はさておき、文体のバリエーションとして各国の本記を拙訳(文体紹介なので意訳をしません)で紹介する。

百年の夢がきょうかなう(新華社)

 百年の五輪夢、その夢がきょう叶う。今晩、幾億の中華青年男女の知恵と熱望を傾注した第29回夏季オリンピックの開幕式が、全世界に向け、その神秘のベールを脱ぎ捨てるとき、神州大地の万民は喜びに沸いている! 天安門広場で、鳥の巣で、雪の高原で、砂漠の極北の村で、四川大地震被災地区の被災民キャンプで、至る所、風を受けて翻る五星紅旗、至る所、「頑張れ中国、頑張れ五輪」の歓声。わき上がる群衆、中国と国旗のマークを顔に描き、五星紅旗と五輪旗を振る都市農村の群衆は、オリンピック精神が中華の大地に発揚し、改革開放の中で聳えたつ中国の進歩・解放の証左となった。

 「中国頑張れ、五輪頑張れ」は最も熱烈な祝福の言葉だ。

 夜の帳が降りた北京天安門広場は宝石のように輝き人を惑わす。花は海のごとく、灯火は星のごとし。人の波がわき起こる。

 天安門広場の東、国家博物館前にそびえる立つ五輪逆算時計が歴史を刻む。「10、9、8、7・・・2、1」。人々が声を揃えてカウントダウンするなか、1417日の赤い数字が点滅した。2008年8月8日夜8時、突然動きを止め、ゼロになった。その刹那、歓喜の声がわき起こり、平素相知らぬ人々が互いに手を打ち慶事を祝った。

 「世界の注目を集めるオリンピックが初めて中国の歴史ある地で盛大な幕を引き開く。中華民族百年の夢が現実になる。どうして感動しないでいられようか」と68歳の男性が言う。

 今晩の天安門の城郭はこと更に荘厳と光輝を増す。無数の提灯が、天安門の輪郭を金色緑色に輝かせている。城郭の上の国章が黄金に光る。

 天安門広場には黄色い肌、白い肌、黒い肌が寄り集まり、歓喜の奔流となった。(以下省略)

文化と希望でゲームが始まる(ニューヨークタイムズ)

 20世紀最後の冬季五輪は、きょう、国際平和と兄弟愛の理想主義的希求を広める、日本文化の簡素かつ伝統的な祝いで幕を開けた。

 アメリカのイラク攻撃が迫るなか、国際オリンピック委員会会長はすべての国に16日間の五輪期間中の停戦を求めた。

 サマランチ会長は、IOCによるオリンピック停戦のアピールが、人類の悲劇に終止符を打つ努力として、国際対話と外交的解決を醸成することを願うと述べた。

 72国2450人の選手が南スタジアムに入場した後、尊敬されている日本人フィギュアスケート選手、伊藤みどりが聖火を点灯した。2時間の開会式の約20分は、ベートーベン「歓喜の歌」の演奏にあてられた。

 ベートーベンの第九交響曲のクライマックスは、近代五輪の父とされるフランス人、クーベルタン男爵の希望により、すべての五輪で演奏される。しかし、今日の演奏は、音楽的にも技術的にも高度な名人芸を体現した、とりわけ野心的なものだった。

 白い空の下、5万人の観客が壮大な日本アルプスに囲まれた競技場を埋めるなか、人工衛星でリンクした5大陸のコーラスによって歌われた「歓喜の歌」は、絡み合う五つの輪を象徴した。ボストン交響楽団総監督の小沢征爾は、ニューヨーク、ベルリン、北京、シドニー、南アフリカのケープ岬にいる200人の合唱団を指揮した。コーラスは、長野県文化会館の90人、開会式会場の2000人の合唱団と時間差技術で繫げられた。

 舞台を取り巻く80人のバレーダンサーと演奏は、かりそめにせよ、人類皆兄弟という、交響曲の理想、五輪の理想に首肯する気持ちにさせるものだった。

 統一と調和を21世紀に、というテーマは開会式を通してこだました。聖火は英国の反地雷運動家、クリス・ムーンによって会場に運び込まれた。右手と右脚を失ったため、左手でトーチを掲げたムーンは、子供たちに囲まれてアリーナを回った。

 空に放たれた、鳩の形をした約2000個の風船には、長野の子供が書いた平和のメッセージが添えられている。戦後三度目の五輪に込められたメッセージは、平和友好の未来を押し進めることで、侵略主義の過去を清算したいという日本の願いだ。(以下略)

五輪100年、新世紀へ(朝日)

 風がやんだ。

 蒸し暑い盛夏は、夜になっても客席に火照りを残した。八万人の観衆で埋まった五輪スタジアムは、この夜、地球で唯一最大の脚光を浴びる舞台となって、南部ジョージアの暗く濃い闇にきらめいた。

 近代五輪が始まって百年。地球の一点に初めて集まった全百九十七の国と地域の代表は、日指しに刻々と色合いを変える大河のように、華やかにスタジアムに繰り出してきた。

 先頭に立って入場してきたのは、古代五輪の聖地ギリシャの選手団だ。クーベルタン男爵の提唱で、百年前に復活した近代五輪の開催地はアテネだった。その時参加したのは、わずか十三カ国、三百人足らずの選手にすぎなかった。

 パリ。セントルイス。ロンドン。小さな泉から発した近代五輪は、世紀を越えてせせらぎとなり、回を追うごとに支流を集めて川幅を広げた。だが、その流れは平穏でなかった。

 「近代五輪の百年は、危機の歴史だ。何度も消えそうになり、その度に不死鳥のようによみがえった」

 夏冬を通し、今回で二十一度目の五輪に臨んだ国際オリンピック委員会の清川正二名誉委員は言う。

 一九一六年の五輪は第一次世界大戦で中止に追い込まれた。三二年ロサンゼルス大会百㍍背泳ぎで優勝した清川氏は、三六年ベルリン大会でも銅メダルを得た。

 「聖火リレーや壮大な開会式が行われ、五輪が国家イベントになったのは、ベルリン大会からでした」

 開会を宣言したのは、褐色の制服に身を包むヒトラーだった。戦火の中で四〇年東京、四四年ロンドン大会もまた、返上、中止に追い込まれた。

 戦後も、五輪は政治の陰に覆われ、揺らぎ続ける。

 五六年夏に開かれたメルボルン大会は、ハンガリー動乱をめぐって緊張した。水球の準決勝でハンガリー、ソ連の選手が乱闘し、プールを血で染めた。

 テロに血塗られた七二年ミュンヘン大会。ソ連尾アフガニスタン侵攻で西側がボイコットしたモスクワ大会。八四年ロス大会は、その報復として東側が不参加だった。

 冷戦が終わり、国連加盟国よりも多い国々が、ともかくも一つの場所に会した。それだけで、五輪が百年を長らえた意味はある。

 「見てほしい。政府はないが、国と旗は残った」

 開会式の前、そう語っていたかつての内線の血、ソマリアの選手団が会場に姿を見せた。

 「毎晩、眠る前に思った。明日の朝、目覚めることはもうないだろう、と」

 四年間を内戦下のサラエボで過ごした射撃のネザド・ファスリャ選手はこの夜、ボスニア・ヘルツェゴビナの旗の下で行進した。戦争で二人の叔父と祖母を失い、親友が殺された。

 「どうか平和を守ってほしい。僕が世界に言いたいのは、それだけだ」

 砲撃下でも、毎日走り続けたマラソン選手がいる。戦火でボートを失った漕艇選手が、手を振っている。

 晴れやかな顔。背筋を伸ばした選手たち。この夜、彼らに地球最大の舞台を提供した「南部の首都」アトランタもまた誇らしげだ。

 街の紋章は不死鳥だ。南北戦争のさなかの一八六四年、北軍の侵略によって焦土となった悲劇から立ち直る象徴だった。

 だが、その後も南部の黒人は、酷薄な道を歩んだ。

 「百年後の今年、世界がアトランタを五輪開催の地に選んだことには、格別の意味があるのです」

 南部キリスト教指導者会議のジョセフ・ローリー会長は言う。米最高裁が「人種による隔離をしても施設が平等なら合憲」として、差別を追認したのは一八九六年。近代五輪が産声を上げたのはその年だった。

 水飲み場や食堂、バスの座席さえも肌の色で隔離する政策を覆すには、一人の指導者が必要だった。この街に生まれたマーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、非暴力で公民権法を勝ち取りノーベル平和賞を受けた。東京五輪が開かれた一九六四年のことだ。

 「アトランタはまだ途上にある。だがこの町が百年をかけて人種融和に努力し、多くの障害を越えてきた現実を、世界に見てほしい」。暗殺されたキング牧師の腹心で、五輪招致を進めたアンドルー・ヤング前市長は話す。

 今回の五輪では、ゴルフを正式種目にして、名門オーガスタで開催しようとする動きがあった。だが、クラブが黒人に会員の門戸を閉ざしていることが問題になり、立ち消えになった。

 ヤング氏がいうように、人種問題の解決には、まだ時間がかかる。だが、この町が、人種平等を掲げたキング牧師の言う「夢」を老い続けてきたのは事実だ。

 「五輪の聖火が人から人に受け継がれるように、私たちも次の世代に、心の尊厳を伝えましょう」

 開会式前の日曜日、かつてキング牧師が主宰したエベニザー教会の礼拝で、黒人女性は静かに呼びかけ、拍手を浴びた。

 政治の陰が払われた代わりに、今回の五輪で目立つのは商業主義だ。東側が威信をかけて育成した「アマチュア選手」は姿を消した。だが企業の女性がなければ、選手は世界の水準に追い付けず、大会も開けないほど五輪は巨大化した。

 しかし、人間が千分の一秒の壁を破ろうとするとき、金は無力だ。すがすがしい風を残して駆け抜けた数々の選手たちは、そう私たちに教えてくれた。

 この百年をかけて、人類は男子百㍍走の五輪記録を2.04秒縮めた。三段跳びで、4.46㍍だけ遠くに着地した。ささやかかもしれない。だが、ともかくも人は限界を超え、未知の世界に一歩足を踏み入れた。

 より速く、より高く、より強く。

 しなやかな筋肉の力動。優美な曲線の軌跡。疾走する影たち。私たちはこれから始まるドラマを、固唾をのんで見守るしかない。見守ることの幸せを、いまはそっとかみしめよう。

2008年8月9日土曜日

田中角栄死去

 田中角栄死去の評伝。筆者は現在最も格調高くハイブローな原稿を書く政治記者。時代を象徴する出来事、人物を表する場合、書き手の歴史観・政治観の水準が露見する好例だ。書き出しと最終段落を絡めるのは、逆三角形にする必要のない評伝の基本作法。

 どこか、浪花節のような「影を慕いて」だった。自分の世話で就職した人たちとの懇談会に出かけた首相・田中角栄氏は、懐かしそうに歌った。

 昭和九年三月、雪国新潟の寒村から上京した時、この歌が街を流れていた。住み込み店員から土建業で身を立て、戦後の政界で出世、そして刑事被告人なった生涯は、昭和動乱のひとつの象徴だろう。

 この人ほど自民党政権の光と陰を体現した政治家はいない。

 昭和二十年代、矢継ぎ早に手がけた国土開発の議員立法。蔵相、幹事長などほぼ政権主流にあって、高度成長を促す経済運営に組みした。「日本列島改造論」には出稼ぎ解消、格差の是正を込めていた。高速道路、新幹線の整備はいわばゴールだった。日中国交回復は戦後外交の大きな区切りとなった。

 「政治は生活だ」というのが演説の枕詞だった。前のめりともいえる経済至上主義は、物的な欲望を刺激し、日本の繁栄を演出した。が、時として抑制が利かず、狂乱物価に国民の不満が噴き出し、政敵福田赳夫氏の追及を受けた。「政治とカネ」をめぐるスキャンダルがまとわりついて、もう一人の政敵三木武夫氏の挑戦を受けた。

 炭坑国管事件に連座(二審で無罪)、「金脈」による首相退陣、そして首相の犯罪ロッキード事件の発覚。カネの力を信じ、派閥を養い、党内支配権を築く金権政治は、自民党政権を内側から崩した。

 この人の権力への思いは、デーモン(悪魔的なもの)を感じさせた。ロッキード事件後にむしろ、田中派の膨張に腐心し、「数」の力で歴代首相の選出に関与した。「やみ将軍」といわれ、「田中支配」と疎まれる不正常な権力状態をつくった。

 「自民党の七割は俺の人脈」「総理総裁は帽子だ」。われこそはミスター自民党だという自信は、利権やら派閥やら、地方権力やら業界やら、現実政治をめぐるどろどろした人間関係に裏付けられていた。強力な政治力で裁判に対抗、復権しよう、という錯覚もあったかもしれない。

 常ならぬ権力は、クーデターを呼ぶ。世代交代を阻まれた金丸信、竹下登氏らは、田中派の主力議員を奪って、反旗を翻した。元首相は怒り、病に倒れ、再起できなかった。田中支配から竹下派支配へ金権の呪縛は深化し、政官財を闇の力とカネでつないだのは、この人の罪だった。

 にもかかわらず、「角さん」はたぐいまれな明るいカリスマ的魅力の持ち主だった。人を気遣い、冠婚葬祭を重んじた。権力の階段を上っても、民衆の匂いが染み付いていた。

 選挙区新潟三区は、戦前、小作争議が激しかった。東京で成功した農家のアニが「若き血の叫び」を旗印に選挙に出た時、旧支配層に抵抗した農村指導者が陣営に流れ込んだ。これらの人々が、戦後保守の草の根になる。

 後援会・越山会は、アニを「盟主」と呼んだ。そこには、公共事業による利益誘導だけではない交情があったことを否定できない。ロッキード有罪判決後の危機を、二十二万票で支えた。「これは百姓一揆だ」と盟主がつぶやいたのが耳に残る。

 吉田茂、池田勇人、佐藤栄作らの懐に飛び込んで出世をつかんだエネルギーと卓抜な世間知。角栄門下で政治闘争の裏表を学んで、小沢一郎、羽田孜、細川護煕の各氏ら次代の政治家が育った。角栄世代の戦後政治はいま、彼らに変えられようとしている。

 「田中角栄」は、人々が都会に向って人生をしゃにむに切り開こうとした「上り列車の時代」の英雄だったのかもしれない。


2008年8月7日木曜日

赤塚不二夫弔辞

 新聞記事ではないが、「他人の言葉」や手垢のついたフレーズが全くない。その人しか書けない出来事を具体的に紹介し、弔辞として、故人の人となり、功績を客観的、歴史的に位置づけている。

 8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。

 10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。
 終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。
 しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。
 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『このやろう逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。
 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰(or 意味)の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。
 いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
 あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。
 私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義

2008年8月5日火曜日

ロボットプロレス in かわさき 興奮の決戦3番勝負実況中継

 15年ほど前に「number」誌の末尾の小さなスポーツニュースを伝えるコーナーに掲載された。出来事をvividにリポートするのが報道記事なら、こういう手法もありだ。ゲームに合わせた軽快でテンポよい文には、オチまで用意されている。

 オレは興奮していた。最近見たプロレスよりも興奮していた。8月27日、川崎産業振興会館の昼。第1回かわさきロボット競技大会。
 いま、記念すべき決勝戦が始まろうとしているのだ。約300人の満員の館内は静まり返っている。
 この日すばらしい試合の連続だった。ベンダー対ハンセンのような、猪木対アンドレみたいのもあった。試合に負けボーゼンとし、涙をこらえる奴までいたんだから。
 ルールは簡単。3分1本勝負。相手をひっくり返すか、ロープに3秒押し込めば勝ち。決勝は3本勝負。「鮫洲のカメ虫」(都立工業高専)対「カトレア」(東京エレクトロニックシステムズ)が決勝のカード。カメ虫は学生らしく製作費は2000円(参加費は除く)。「アルミは学校で拾ったもの、それに電池代くらいですから」。
 カトレアは―—。
 「ウーン。20万円くらいかな」。
 ゴングが鳴った。館内は一気にヒートアップ。「おせおせカメ虫。いけいけカメ虫」とコールも起こる。
 「ウィーィン、ギシギシシィー」
 「ゴケゲゲン、キキキィィィ」
 カメ虫とカトレアが激しくぶつかり合う。骨がきしむような戦いをしている。ロープ際に押し込み、盛り返しの白熱の攻防だ。1本目はなんと2000円のカメ虫が先取。2本目に入ってもカメ虫の勢いは衰えない。カトレアはリフトアップするという離れ業も。しかし時間切れ。判定は引き分け。ここでカメ虫は力尽きた。延長の末、敗北。胸が詰まった。だが、敗者はさわやかだった。
 「向こうは製作費20万円ですか。で、賞金は30万円。こっちは2000円で20万円ですからね」
 
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