2009年7月18日土曜日

清志郎さん「ぼくの好きな先生」も弔問

 悲しみは、悲しいと書くのではなく、伝えなければならない。丁寧に手を尽くして。
 
 

 この日午後4時4分、都内の自宅から清志郎さんの遺体を運ぶ車が、密葬会場に向けて出発すると、晴天の上空に虹が2本のアーチを架けた。雨上がりの空でもないのに…。気象庁に問い合わせても「極めて珍しい」という現象は、カラフルなメークと衣装で観客を酔わせた「清志郎ルック」の名残のようだった。

 ひつぎの清志郎さんは喉頭がんを克服して行った08年の日本武道館で着用した、関係者が「これしかない」というピンクのスーツを着ていた。場内に清志郎さんの歌が流れ、遺影は微笑んでいた。午後6時から近親者のみの密葬に親交の深い友人たちも参列した。RCサクセションのギタリストで第一の親友仲井戸麗市は沈んだ表情をサングラスで隠した。坂本も陽水も竹中も険しい顔つきで言葉はなかった。

 悲しみの中、松葉杖をつきながら、清志郎さんに別れを告げたのは日野高3年時の担任教師、小林先生だった。フォークバンド時代のRCが初めて飛ばしたヒット曲「ぼくの好きな先生」のモデルになった美術教師だ。かつて漫画家や画家を目指した清志郎さんが同曲で「劣等生のこの僕に すてきな話をしてくれた ちっと先生らしくない ぼくの好きな先生」と歌った小林先生は柔和な笑顔で「実際は苦しんだか分からないけれど、穏やかに逝った顔だったよ」と、と語り始めた。

 高校を卒業して40年。清志郎さんが慕い続け、最後まで親交が深かった。2月の同高美術部の「OB展」が、最後の対面となった。「病気があるから、元気なうちに話したかったようだ。回復しているように見えたんだけどなぁ…」と無念がポロリとこぼれた。

 清志郎さんは目立たない生徒だったが、気遣いを忘れず「レコードを出したときもね。(モデルにして)『先生に迷惑をかけちゃったかなぁ』って気にしていたよ」と振り返った。職員室より教室でキャンバスに向かうことが多かった小林先生は、体制にこびないパフォーマンスを繰り返した清志郎さんの原点だったに違いない。恩師が当時の顔を思い出しながら「よく頑張った。ゆっくり安め」と、ひつぎの教え子に語りかけるころ、虹が映えた青空に夜のとばりがおりていた。

2008年11月27日木曜日

ひと目見せたかった

 私が登場しない、アメリカンコラムの一つの典型的手法である。人をアッといわせるのがニュースの原点だとすれば、米ジャーナリズムは洗練した手法でアッとを繰り出す。

 ミセス・ヴィクトリア・クロウフォードの指は、夕方のそよ風を受けてふっくらと膨らんだライム色のカーテンを探し求めた。カーテンはただの道しるべにすぎなかった。彼女はさらに指を這わせて、窓のしたのコーヒー・テーブルのうえに置いてあるソニーのポータブル・ラジオを探りあてた。

 ラジオのスイッチをオンにする。いちいち局を選択するのにわずらわされたりはしない。いつだってWMCAに合っているからだ。WMCAは、メッツの試合が放送される局。ヴィクトリア・クロウフォードの一日にとって、待ちに待った時間が始まったのだ。

 ラジオからは、ストラウス・コミュニケーションズのコマーシャルが流れている。ヴィクトリア・クロウフォード—彼女は69歳だ–は小さいリヴィジョン・ルームをよろよろと横切って、彼女のお気に入りの、プラスティック・カヴァーがついた大きな黄金色の椅子まで辿りついた。やれやれと椅子に沈みこみ、椅子の肘掛けに両腕をだらんと乗せた。椅子はラジオの正面を向いている。その向こうにはテレビもあるけれど、ミセス・クロウフォードにはもう用なしだ。1962年、彼女のごひいきの野球チーム、メッツが誕生した年以来ずっと、ミセス・クロウフォードは目が不自由なのだ。

 「私、この椅子が大好きなのよ」どこか甘ったるい、高い声でヴィクトリア・クロウフォードは言った。「あの古びたテレビはもう見られなくなったけど、ここに座れば、そよ風を受けながらゲームに耳を傾けることができるんだから」

 ラジオからは<メッツに会おう>というテーマ・ソングが流れてきた。ヴィクトリア・クロウフォードは椅子のなかで前かがみになって、頭をほんのちょっとラジオの方向へ傾かせた。パチパチと手をたたくと、にっこり微笑んだ。

 「私、このテーマも気にっているの」彼女は言った。「いよいよ試合が始まるわ」

 テーブルの真ん中、赤いドレスを着て微笑みを浮かべる若かりし頃のヴィクトリア・クロウフォードの写真の横に置かれたソニーのラジオから、野球の夕べが始まった。

 アムステルダム・アヴェニュー102番地と103番地のちょうど真ん中あたり、フレデリック・ダグラス・ハウジング・アディションの一角にあるアパートには全部で3つ部屋がある。リヴィング・ルーム、キッチン、ベッドルーム。月々の家賃は82ドルで、ミセス・クロウフォードはそれを社会保障で支払っている。社会福祉は全然信用していないと、きっぱり言った。夫が亡くなってもう2年になる。彼女自身は1962年の1月に事故のため、光を失った。最大の楽しみは、ニューヨーク・メッツの試合を聴くことである。もう17年も熱心に続けてきたのだ。その目で彼らのプレイを見たことは1度もないけれど。

 アパートには、各部屋に1台ずつ、計3台のラジオがある。ダブルベッドの脇のナイトスタンドの上には大型で旧式のジュリエット。キッチンの棚のてっぺんには、XAMバンド・ラジオ。アパートのなかを歩きまわっているときも、ミセス・クロウフォードは1球たりとも聴きのがしたくないからだ。そんな彼女だから、きっと、誰よりもたくさんのメッツの試合を聴いてきたことだろう。メッツ最大のファンであることは、間違いない。メッツは彼女の一番の親友なのだ。

「まあ、私が彼らの最大のファンだなんて、とんでもない」と、彼女は言った。「大ファンたちのあいだで有名になるのは嬉しいですけど。だって私、メッツの試合を聴くのが本当に楽しいんですもの」彼女は、まるで気をつけの姿勢をとる審判さながら、背筋をピンと伸ばしてお気に入りの椅子に腰かけている。ガラスのように透明な眼鏡の位置をひょいと直した。ちょっとだけ鼻の方へ滑っていってしまったのだ。

 ラジオでは、スティーヴ・アルバートがメッツとブレーブスのバッティング・オーダーを繰り返していた。もうすぐプレイボールだ。ヴィクトリア・クロウフォードは椅子の袖に乗せた右手の指をぽんぽんとたたきはじめた。

 「私ね、試合をまるで見ているように心に描くことができるのよ」彼女は言った。「彼らがボールを打って、バントを決めて、ベースを盗んで、ランナーをアウトにするのが、まるで目に見えるようなの。それも、これも、アナウンサーのお陰ね。ラジオのアナウンサーがあんなにうまく中継してくれなければ、いくら私でもゲームを見ることはできないと思うわ」

 リンゼイ・ネルソンがいなくなって寂しいですか、と訊いてみた。

 「スティーブ・アルバートだって若いわりにはよくやっているわ」彼女は言った。「でも、やっぱりリンゼイ・ネルソンがいないのは寂しいわ。なんたって、彼の中継は臨場感に溢れていたもの!そうそう、あれは1968年だったわねえ。彼、クレオン・ジョーンズの捕球を中継していたのよ。あれは聴きものだったわよ。彼はこう言ったんだから、クレオンは打球をキャッチするためにフェンスに登らなければなりませんでした、って。ねえ、リンゼイはこう言ったのよ、クレオンの足跡がフェンスにはっきり残っています、って」

 クレイグ・スワンがボブ・ホーナーを三振に切ってとり、ブレーブスの初回の打撃が終わった。「(ウェイン)トウィッチェルがこないだいいピッチングをしたでしょ」彼女は言った。「でも、うちのエースはあくまでクレイグ・スワンよ、間違いなく。彼こそ、切り札なのよ」

 部屋は暗くひんやりしているけど、どこか楽しげである。ときおり、ディスコ・ミュージックがそよ風に乗って、通りの向こうから流れてくる。ヴィクトリア・クロウフォードの左には小さなテーブルがあって、新鮮なフルーツの入ったボウルや胡桃の皿、ペパーミント・スティックの詰まった壺が置いてある。お客様用のカウチの向こうには明るい色調の油絵が一枚かかっている。通りの先に住んでいる娘のジョージーが彼女をギャラリーに連れて行ってくれて、そこに展示してある絵を一枚一枚説明してくれたことがあった。「その中から一番気に入った絵を一枚手に入れたの」彼女は言った。その絵は愛すべきものだった。でも、彼女の部屋で何よりも愛すべき対象は、あのソニーのラジオなのだ。

 マッツィーリがボックスに立った。

 「ツー・ボールね」と、ミセス・クロウフォードは言った。「また歩かせるわよ。こないだの晩だって歩かせたじゃない、でしょ?」水曜の晩の対レッズ戦で、マッツィーリは2度歩かされていた。

 マッツィーリはシングル・ヒットを放ち、メッツが1点をもぎ取った。ヴィクトリア・クロウフォードは椅子からぐっと前のめりになり、倒れないように袖を手で力いっぱい握らねばならなかった。前に敷いてあるグリーンの敷物から足がわずかにずれた。

 彼女は嬉しそうに歓声をあげ、またも頭をラジオの方へ傾けた。

 「タイムリー・ヒットよ!」彼女は叫び声をあげた。「これでマッツィーリをオールスターのチームから締め出すなんて、どうしてできるの?」

 アラバマ州セルマで大きくなった少女時代から、彼女は野球をするのが大好きだった。目が見えた頃は、ブルックリン・ドジャーズのファンだった。彼女によると、ヤンキースはどうしても好きになれなかったという。「なぜって、あのチームには華やかなプレイヤ—があまりいなかったように思うのよ」メッツが誕生した時、彼女は彼らに乗りかえた。以来17年このかた、メッツの試合は彼女の長い1日のいくぶんかを占め続けてきたのである。

 「アル・ジャクソンはいつだって私のお気に入りだったわ」彼女は言った。「リル・アルって、みんな彼のことを読んでいたわ。かつてはバッタバッタと三振を奪ったのよね。そうそう、それにクレオン・ジョーンズとトミー・エージーもすごく好き。あのふたりはアラバマのモビールからやって来たのよ、知ってる?ほうとうに彼らが野球をするなんてねえ。あなた、あのふたりを見たことある?」

 彼女は、夜遅くウェスト・コーストのゲームを聴くのも大好きだという。「1日のうちで、いつ野球を聴いてもべつに違いはないでしょう」淡々とした口調で彼女は言った。ジョン・スターンズの打率は下降気味だけれど、もうまもなく打ち始めると思うとも言った。彼女に負けず劣らず長いことメッツにいる選手、エド・クランプールについて訊いてみた。「まだやれる選手だとは思わないわね。でもそんなことは書かないでね。彼の気持ちを傷つけたくないから」彼女はそう言って笑うと、髪をちょっと撫でた。バスに入ったせいでまだ濡れている。何しろ試合が始まろうとしていたから、乾かす時間がなかったのだ。

 ラジオが彼のスケジュールなのだ。何をするにもラジオの時間にしたがって動いている。よほどのことがないかぎり、ダイヤルをWMCAから動かすことはないという。17年間、ヴィクトリア・クロウフォードは、彼女なりのやり方でメッツの方に手をのばし彼らと触れあうのに、ラジオを利用してきたのだから。

 金曜の晩、お気に入りの椅子に腰かけて、彼女はメッツがブレーブスを2対1で破った試合に耳を傾けていた。ひいきチームがチャンスを迎えたときだけ、ぐっと身を乗り出すようにして。彼女はしみひとつない白いブラウスとプレスのきいたピンクのスラックス、それに黄色の寝室用のスリッパという姿だった。お客さんを振り返っては、何か飲み物でもいかがと訊いていたが、客は、彼女とゲームに耳を傾けているだけで十分だと言った。

 「いいこと」ヴィクトリア・クロウフォードは言った。「私はね、メッツの試合にお客さんが詰めかけてくれるだけで嬉しいのよ。以前はメッツもお客さんでいっぱいになった時期があったわ、でしょ。あの大観衆、あなたも一度見ておくべきだったわね」

2008年9月26日金曜日

書きやすさと嘘

ジョークを扱う記事に遊び心がないと「洒落の分からない奴」ということになるが、遊びすぎると「英語が分からない奴」ということになる。オリジナルはIt is not a Japanese machinery, no?

 【ニューヨーク25日共同】麻生太郎首相は25日午後(日本時間26日朝)、国連本部で開催中の国連総会一般討論で「きのう首相に選ばれたばかりです」と英語で冒頭のあいさつをした上で演説し、国際舞台で首相としての第1声を上げた。

 その後は日本語で10数分間、演説原稿を読み上げ。途中、通訳機の音声の具合が悪くなるトラブルがあったが、首相はすかさず英語で「これは日本製の機械ではありませんから」とジョークを挟み、会場から笑いを誘っていた。

【ニューヨーク25日時事】麻生太郎首相が25日に国連総会で行った一般討論演説で、同時通訳の回線がつながらず、首相の日本語音声のみが4分間流れた後、最初から演説をやり直すハプニングがあった。
 首相は冒頭、英語で「きのう指名されたばかりの新品の首相です」とあいさつして会場の笑いを誘った後、日本語に切り替えた。しかし、同時通訳のイヤホンや館内放送では、通訳の英語音声が流れず、会場がざわついた。 
 途中で演説を遮られ、状況を耳打ちされた首相は笑いながら、「(不具合を起こしたのは)日本の機械じゃないですよね」と英語でジョークを飛ばし、「最初からやります」と言って拍手を受けた。

【ニューヨーク=加藤淳(読売)】麻生首相が25日夕(日本時間26日朝)に国連総会で行った一般討論演説の途中で通訳機器が故障し、冒頭からやり直すハプニングがあった。

 首相は「24時間余り前に日本の首相として指名を受けたばかりだ」と英語のあいさつで演説を始め、その後は日本語に切り替えた。ところが、同時通訳の音声が流れなかった。

 約5分ほど進んだところで高須幸雄・国連大使が壇上に駆け寄り、機器の故障を耳打ちすると、首相はすかさず英語で、「メード・イン・ジャパンじゃないからこうなる」。会場は大きな笑いと拍手に包まれ、終了後には何人かの出席者が「いい演説だった」と首相を祝福した。
演説のやり直しに苦笑いする麻生さん=清水健司撮影

 就任直後の慌ただしさの中で「外交デビュー」を強いられた首相だが、外相経験もあるだけに、場慣れしたところを示した。

 【日経】「この機械は日本製じゃないな」。麻生太郎首相が25日に国連総会で一般討論演説した際、通訳の機械がうまく機能せず、演説の途中で最初から読み直すハプニングがあった。機転をきかせた首相はジェスチャーとともに通訳の機械について英語でジョークをとばし、会場の笑いを誘った。

 首相は演説の冒頭で「昨日、首相に指名されたばかりのbrand newだ」と英語で就任早々駆けつけたことを説明。その後、日本語に切り替えて演説を約5分間続けたが、会場内の通訳の機械からは英語が流れず、議長から促されて異例の読み直しとなった。(ニューヨーク=中山真)

 【毎日】麻生太郎首相は外交デビューの場となった25日夕(日本時間26日未明)の国連総会演説で、通訳の機械の不具合に見舞われたもののジョークで切り返す余裕を見せた。

 演説を始めて約3分後、壇上の首相に国連職員が近づいた。機械の不具合によって演説を聞くことができない人がいたため、最初からやり直してほしいという依頼だった。

 これに対し、首相は「日本の機械じゃないよね」とマイクに向かって発言し、会場の大爆笑を誘った。それまでは硬い表情が目立った首相。これでリラックスしたのか、「2回目」の演説は身ぶりを交えながら軽快にしゃべった。【ニューヨーク西田進一郎】

【番外】麻生首相国連演説

欧米風スピーチの文体というより、そのスピーチをどう訳すかというサンプル。外務省文書課の底力を認めないわけにはいかない。

議長、御列席の皆様、


It is my greatest honour to stand here as the new Japanese prime minister---brand new, really, having been designated by the Diet just slightly more than 24 hours ago.
(私は24時間余り前、我が国国会から日本国の総理大臣として指名を受けました。受けたばかりの者、でありまして、そのような者として本日この場に立つ機会を得ましたことは、まことに光栄の至りであります。)

初めに、ミゲル・デスコト・ブロックマン総会議長の就任をお祝い申し上げ、スルジャン・ケリム前総会議長の御尽力に、心より感謝します。潘基文事務総長は、国連諸活動の運営に、変わらぬ指導力を発揮しておいでです。深甚なる、敬意を表すものであります。

議長、

この度ニューヨークを訪れて、私はバンカー(銀行家)について昔聞いた話を思い出しました。バンカーには、いつも2種類しかいないそうです。少ししか記憶できないバンカーと、まったく何も記憶できないバンカーと——。

金融に、マニアとパニックが相伴うこと、形あるものに、影の従う如くであります。一定の間隔を置いて、マニアは必ず胚胎し、パニックを招来します。

今から10年前のちょうど9月、世界は一度、流動性を突如失う悪夢を見たはずでした。この四半世紀余り、東京はもとより多くの国、市場を舞台としながら、マニアとパニックは数年おきに、あたかも終わりのないロンドを奏でてきたかに見えます。

この度の熱狂において、東京は比較的素面(しらふ)でありました。が、これとても、1980年代から90年代にかけしたたかあおった酒の宿酔(ふつかよい・a hangover)が過剰債務(a debt overhang)となり、これに苦しむこと、あまりの長きにわたったゆえだったに過ぎぬと言っていいでありましょう。

まこと、ロンドに終わりはなく、人類は、遠からず同じ旋律を聞くに違いあるまいと思います。そのたび1インチであれ前進し、賢明になろうとするほか、対処の方法はありません。

国際金融の仕組み(アーキテクチャー)を巡る侃々諤々(かんかんがくがく)が、いま一度始まるものと思います。日本として、持てる経験と、知識の貢献に心がけたいものであります。

議長、

5月の日本は、新緑を愛でる季節です。7月7日とは、軒先に飾った竹の枝に、願い事を書いた紙片をくくりつけ、子供と大人が夜空に夢を見る日であります。

今年の5月、日本は港町横浜に総勢3000人を集め、TICAD IVと我々の呼ぶ、アフリカ開発に関する会議を開きました。

アフリカからは、41人の国家元首・首脳級を含む、51カ国の代表が集まりました。「元気なアフリカ」を高らかに謳いあげ、経済成長を加速するための支援を呼びかけました。ミレニアム開発目標を、持続可能な形で追い求める——。人間の安全保障という、日本が大切に育くんだ理念にもとづいて、アフリカに保健を、水と衛生を、そして教育をもたらしていく——。3000人は、決意を新たにしました。みずみずしい若葉の緑は、一人ひとりの胸を染めたでありましょう。

そして7月7日、未来に夢を託す日を選び、我が政府は北の島、北海道の洞爺湖に舞台を移して、G8サミットと、一連のアウトリーチ会合を開いたのでありました。

主なテーマのひとつを再び開発をめぐる問題とし、アフリカから多くの参加者を呼んだのは、取りも直さずTICAD IVがもたらした勢いを、確かならしめるためでした。

いまひとつを気候変動への対応とした結果、世界全体の長期目標採択を目指し、すべての主要経済国が責任をもって加わる、実効的な枠組みを国連の下でつくることになりました。このことを私は洞爺湖の小さくない成果として、指を屈すべきものと考えます。2009年末までに、実現を目指したいと思います。

気候変動との取り組みを、議長始め皆様は、我が国千年の古都、京都の名と結びつけてご記憶でありましょう。もとより日本は、本問題につき、いささかの自負なしとしません。GDP1単位を生み出すのに必要なエネルギーの少なさにかけて、世界のトップを行くのは日本であります。背後には、それを可能にした技術の独創がある。大いに、世界に使ってほしいものです。セクター別アプローチという発想も、これをもって日本が諸国への貢献を目指すものであります。

議長、

これが、つい2カ月と少し前、我が国主催のもと、G8が到達した地点であったのです。

今や、世界経済は変調にあります。私は、5月の誓いと、7月の夢が、疾風下、いささかも動じないことを願い、かつ信じます。元気なアフリカを、一層元気にすること。地球環境の悪化を、すべての国の努力によってくいとめること。いずれとも、世界経済の安定を大切な前提とするものです。

であるならば、私の見るところ、日本自身の課題はもはや明白であります。すなわち日本は、自らの経済を伸ばしていくことに、その一義的な責務をもつのです。世界第2位という日本の経済規模に照らすなら、これこそは、日本がなし得る即効力のある貢献だと言わねばなりません。わたくしは、これに断固として取り組んでまいります。議長始め皆様に申し上げ、約束するものです。

議長、

話題を転じ、夏の終わりの、ある出来事をご紹介したいと存じます。

ところは、東京郊外の小さな街。去る8月末、ここに海外から9人の高校生がやって来ました。日本に来るのは初めてです。慣れない料理に顔をしかめるなどは、どこにでもいそうな高校生のビジターと、変わるところがありません。

1つだけ、ありふれた招聘プログラムの参加者に比べ、彼ら、彼女らを際立たせていた特徴がありました。4人がパレスチナ、5人がイスラエルの高校生で、全員、テロリズムを始めとする過酷な中東の現実によって、親族を亡くした遺児であったという点です。

議長、

日本の市民社会が地道に続けてくれている、和解促進の努力をご紹介しました。高校生たちは、母国にいる限り、互いに交わることがないかもしれません。しかし遠い日本へやってきて、緑したたる美しい国土のあちこちを、イスラエル、パレスチナそれぞれの参加者がペアをなして旅する数日間、彼らの内において、何かが変わるのです。親を亡くした悲しみに、宗教や、民族の差がないことを悟り、恐らくは涙を流す。その涙が、彼らの未来をつなぐよすがとなります。

包括的な中東和平には、それをつくりだす、心の素地がなくてはならぬでしょう。日本の市民社会は、高校生の若い心に投資することで、それを育てようとしているのであります。

議長、

この例が示唆する如く、日本ならばこそできる外交というものがあることを、私は疑ったことがありません。

ヨルダン川西岸地区に、もしイスラエルの点滴灌漑技術を導入できたなら、パレスチナの青年は野菜づくりにいそしむことができます。しかし双方を隔てる不信の壁は、それを直ちには許しません。日本はそこに、触媒として入り込み、両者を仲介します。その際に、点滴灌漑の力を最大限発揮せしめる日本独自の技術を持ち込みます。

やがて西岸地区が灌漑によって緑の大地となること。そこで採れた農産物がパレスチナ人の加工を経、ヨルダンを走って湾岸の消費地へ行き、新鮮なまま店頭に並ぶこと。これを目指すのが、我が政府の進める「平和と繁栄の回廊」構想にほかなりません。

日本はここで、自らの持つ技術や資金を提供するのはもとよりのこと、何よりも、信頼の仲介者となるのです。そして信頼こそが、中東にあっては最も希少な資源であること、言をまちません。

我が政府は今、核兵器の全面的廃絶に向けた決議案を提出しようとしています。日本がこれに込める思いの丈を、疑う人とていないでしょう。同じ意味において、IAEAの活動に日本が重きを置くことに、多くの説明は無用であろうと存じます。かつて同機関理事会議長を務めたことのある天野之弥(あまの・ゆきや)ウィーン代表部大使を、わたくしは、IAEA次期事務局長候補として立たせるものです。皆様の、ご支持を願ってやみません。

議長、

先にわたくしは、日本における7月7日の意味について触れました。G8のため洞爺湖に集まった、首脳と配偶者たちは、笹の葉に、こもごも願いを書き付けたのであります。言葉こそ様々であれ、平和を願わなかった人はおりません。

けれども以来わずかの月日を経るうちに、各所で平和の乱れる事態が相次ぎました。私はまずグルジア情勢に関し、ロシアを含む当事者の責任ある対応によって、領土保全の原則にもとづきながら、問題が、平和的な解決を見ることを強く期待するものであります。

7月7日——。英国で、これは忌まわしい記憶を呼び覚ます日付でありましょう。ここに集う我々にしても、イスラマバードを5日前に襲ったテロリズムの非道に対し、憤怒を新たにしたはずであります。アフガニスタンの情勢にも、改善の道筋はなかなか見えようとしません。テロリズムが世界の平和と繁栄に対する最大の脅威であることに、いささかの変わりもないのであります。

国際社会はテロリズムに対する粘り強い取り組みを、なお続けねばならぬと信じます。我が国は、アフガニスタンの復興支援に当初から力を注ぎ、インド洋では補給活動を続けてまいりました。私はここに、日本が今後とも国際社会と一体となり、テロとの闘いに積極参画してまいることを申し上げるものです。

日本の近隣に残る問題として最たるものは、言うまでもありますまい、北朝鮮であります。

いとけない少女、「めぐみ」を含む我が国国民を拉致した北朝鮮は、被害者の調査に乗り出すことを約束しながら、未だに着手しておりません。核を放棄する誓約にも、昨今停滞が目立つこと、周知の如くです。私には北朝鮮の行動に応じ、両国間に残る懸案を解決、不幸なる過去の清算にも取り組みながら、日朝関係を前進させる用意があります。待っているのは、北朝鮮の行動です。私は同時に六者会合の枠組みを通じ、北朝鮮に核開発能力と、核兵器の廃棄を迫ってやまぬつもりです。

この際、中国と韓国はそれぞれ日本にとって重要なパートナーであり、互恵と共益を一層増進していくべき国々であります。我が国はこの両国やASEANと重層的なる協力を進め、東アジア地域と、ひいては世界の平和と繁栄のため、共に働かねばならないと考えます。

議長、

わたくしは冒頭申し上げましたとおり、日本国総理大臣に就任したばかりの者です。国会の指名と、天皇陛下の任命をいただいたのが、ものの24時間余り前のことでありました。最初の仕事として、本議場に駆けつけたかった訳を、もはやご理解いただけたことでしょう。私には、申し上げたい事柄が多々あったのであります。

顧みるに我が国は、日米同盟を不変の基軸としながら、近隣アジア諸国との関係強化に努めて今日に至りました。国連を重んじ、国際協調の路線を一度として踏み外そうとしなかったことは、議長をはじめ、本会議場にご参集の皆様が一様にお認めいただけるところでありましょう。いくたびか挫折を経ながらも、経済の建設に邁進してきた我が国民を今日まで導いた一本の線とは、経済的繁栄と民主主義を希求する先に、平和と、人々の幸福が、必ずや勝ち取れるという信念にほかならなかったのであります。

私は、基本的価値を同じうする諸国と連帯し、かかる日本の経験を、強い求めのある国々に伝えてまいりたい。日本には、その責務があると信じてやみません。

議長、

それゆえにこそ、私が日本国民を代表し、再言、三言せねばならないのは、国連安全保障理事会を改革する要についてであります。常任・非常任双方の議席拡大を通じた改革を、早期に実現せねばなりません。来月、安保理は非常任理事国を改選します。日本は、これに立ちます。議長、ならびにご列席の諸国の皆様に、日本への支持を強くお願いし、私の議論を終えようと思います。

有難うございました。

2008年8月31日日曜日

最も過酷な季節

 ラッセル・ベイカーのコラム「オブザーバー」(新庄哲夫訳)は、日本で容認されるユーモアの限界だろう。「化学を勉強し始めて三週間後に、もうクラスメートより六ヶ月も遅れてしまった」というディケンズ風語り口は日本に受け入れられないのだろうか(アメリカの限界は、マイク・ロイコ、アート・バックウォルドを参照のこと)

 九月の第三週は、学校に通っている子供たちにとっていつも嫌な時期である。その頃になると、教育のロマン、つまり新しい教科書、新任の先生、まだおろしていない万年筆、インクのしみ、わけのわからぬ数学の公式でまだ汚れていないノートなどに誘発された新学期の興奮が冷め、現実に屈するようになる。

 しからば、その現実とは何か。認識である。夏休みが再び巡ってくるまであと延々と九ヶ月もあるという認識。地理の先生が自分を嫌っているという認識。体育の先生に体格がぶざまだと思われているという認識。必修科目のうち少なくとも三科目は絶対に理解できそうもなく、何ヶ月もひどく苦しんだあげく、自分が落ちこぼれていくのを記録する落第点Fの泥沼にはまってしまうという認識だ。

 あれはジェーン・シェパードだったと思うが、その話によると、化学を勉強し始めて三週間後に、もうクラスメートより六ヶ月も遅れてしまったそうだ。これはよくある経験で、こうした焦燥感、自分はいつも出走ゲートに閉じ込められているのに、クラスメートはバックストレッチに向って疾走しているという感じなのだけれど、これは多くの人に終生消えない傷跡を残す。

 知り合いのある御婦人などは、経済的には恵まれているにもかかわらず、今なお頑にイタリアに足を踏み入れようとはしない。というのも、ラテン語の授業を三週間受けたのち、彼女はesseという動詞を、あのキケロが満足のいくように活用させることは決してできないと気付いたからである。もはやローマでキケロと出くわす恐れはないと保証しても、彼女の慰めにはならなかった。イタリア半島といえば、自分の屈辱を連想してしまうのである。

 私はといえば、ずっとドイツを敬遠してきた。十年生の時、ドイツ語には定冠詞の言い方が二ダースもあることを発見して以来である。もっとも、これは私の思い違いかもしれない。なにしろドイツ語で何から何まで間違えてばかりいたのだから。それでも一つの事実だけは歴然としている。九月の第三周にまつわる記憶なのだけれど、級友たちは、対格の中性複数形の定冠詞が求められている時に、与格の女性複数形を使う癖が私にあるのをからかい出した、この記憶は、ドイツと私の間に生涯越えられない壁を打ち立てた。

 学校側は認めようとしないが、全ての生徒に同じペースで学ぶように要求するのは馬鹿げている。学校はある仮定の下に授業を進める。つまり、クラス全員の頭脳が同じ瞬間に二項定理をしっかり理解し、次のコーナーで待つ直角三角形の斜辺の二乗に関する盛りだくさんのお楽しみ課題に、同時に進む用意ができているはずだというのである。

 数学で先生の期待によく応えた読者なら、以上のことから推し量って、私の数学の進み具合はひどく鈍かったと判断されるだろう。もしかして、本当はまず直角三角形のことをマスターしてから二項定理に進むべきだったとしても。実をいうと、私はどちらも理解できず、まったく途方に来れて、コサインとセカントに進んだ時には大混乱をきたしてしまった。

 おそらくこうなったのも、その昔、九月の第三週に、先生が9かける6は54を私が理解したと誤解し、先を急いで9かける8は77とかなんとか私に思い込ませたせいである。

 だれでもたいてい生い立ちのどこかで恐ろしい九月の第三週を経験している。もし精神科医が子供時代の体験をリビドーで解釈する際にもう少し視野を広げるならば、成人ノイローゼの新しい源泉がここにふんだんにあることに気付くはずだ。

 私の人生を狂わせた九月の第三週こそ、きょう、私が優秀な原子物理学者になっていない原因である。白状すると、若い自分は日曜日版のエッセイを打ち出すタイプライターたたきになるつもりはなかった。科学のロマンに取り付かれていた私は、アインシュタインから松明を受け継ぎ、後世に伝えることを熱望した。

 こうして私は物理の授業に出た。九月の第一周は胸がわくわくした。教科書が配られ、先生はアイザック・ニュートンとリンゴについて語り、人類発展のフロンティアである実験の手ほどきをしてくれた。二週目にはエルグを手ほどきしてくれた。エルグとはすこぶるうまくいった。エルグなしでは、ブロック材も傾斜路の邪悪な摩擦に打ち勝ち、意気揚々と斜面を登ることはできないのである。

 その週の終わりに先生はダインを手ほどきしてくれたが、それは余計なことのように思えた。私はダインを理解できなかったわけではない。理解しようと思えばできた。理解できなかったのは、すでにエルグがあるのになぜダインも必要なのかという点であった。

 第三週の月曜日になっても、わたしはまだこの形而上学的問題に頭を悩ませていたが、先生はクラス全体がもうダインをしっかり理解したものと決めてかかっており、センチメートルに突き進んだ。ひょっとしたら、ただのミリメートルだったかもしれない。そのあたりのことになるとあやふやである。現実がにわかにぼやけていったからだ。

 混乱したのは、私がまだだいんについて深い疑問を抱いているのに、ダインが理解されたとしてセンチメートルと取り組めと求められたためであった。次の日は更にひどかった。ミリグラムを習う日だった。その次の日にはテストもあった。

 驚いたことに、まだダインで頭を悩まされていたにもかかわらず、エルグだのダインだのセンチメートルだのミリグラムなどと取り組めと要求するのは無茶だと、クラスメートは抗議の叫びを一つあげるでもなくテストを受けたのであった。クラス一同は抗議するどころか、ほとんどがテストに簡単にパスした。私はエルグに関係した問題以外はすべて間違えた。以後その学年は悪夢であった。そして世界はなお、アインシュタインの後継者に相応しい人物の出現を待っているのである。

 

2008年8月30日土曜日

さようならVIP

 ブッシュ氏が米大統領選に敗れた年の終わりに、「去る」人に焦点を当てた特集記事の一部である。観察力は取材力である。とはいえ、このライター、どこでブッシュ氏を見つめていたのだろうか。

 ソ連邦崩壊による冷戦終結で唯一の超大国として残ったアメリカでは、12年間続いた共和党政権が、新たな国家目標を模索する国民の批判の前に倒れた。

 劣勢の中、最後まで勝利を信じて疑わなかったジョージ・ブッシュ(68)は、必死に敗北のショックに耐えていたが、選挙から1週間後、ロバート・ドール上院院内総務の開いた慰労パーティーで一瞬感情を激発させた。

 演説にたったブッシュ氏は「しばらく休みをとり、自分の置かれた現実と、これからのことを考えたい」と話していたが、突然選挙での敗北に触れ、「痛烈に心の痛む巨大な敗北だった」と初めて苦悩と心痛を吐露した。席に戻ってからもドール氏の感傷的演説に顔を両手で覆い、涙をぬぐった。

 その日の深夜、ブッシュ氏は突然側近を呼び、「だれも連れずにベトナム戦没者慰霊碑に行く」と告げた。ベテランズ・デー(復員軍人の日)の当夜、ベトナム慰霊碑では夜通し5万8000人の戦没者の名前を読み上げる儀式が続いていた。

 革ジャン姿のブッシュ氏はバーバラ夫人を伴い、慰霊碑の前で復員兵に交じって名前の読み上げに加わった。

 マッカーシー旋風の赤狩りと戦ったプレスコット・ブッシュ上院議員の二男として誇り高く育てられたブッシュ氏に、大統領選の敗北は耐え難いほどの苦痛だったと思われる。ソマリアへの突然の人道派兵決定は、湾岸戦争以来唯一の超大国としての覇権と影響力を保持することに最大の努力を払ったブッシュ氏の”遺言”であり、大みそから元日にかけてのソマリア視察はその傷ついた心をいやすための旅に違いない。

 

2008年8月27日水曜日

東京ビートルズ−お父さんも歌っていた

 わが国で最初のビートルズのコピーバンド「東京ビートルズ」を描いた連載記事の1回目。戦後50年企画の一環として掲載された。平和な現代社会から恥ずべき過去へ遡るシーンを、娘の視点を通して劇的に仕立てた。現在の父を印象的に表した書き出しは、ちょっと思いつかない。

 父はカラスが嫌いだ。

 庭の菜園でキュウリやナスをつくっている。ところが、実がなると、カラスがくわえて行ってしまう。いつも、父は、うらめしそうに空を見上げている。

 父…斎藤峻。49歳。音楽事務所経営

 私が小学生のころ、父は忙しくて、あまり家にいなかった。有名な歌手のマネジャーをしていた。

 私…斎藤絵理。23歳。峻の長女。23歳

 ある日、遊びに来た父の友達から、こんなことを聞いた。「絵理ちゃんのお父さんも昔、歌っていたんだよ。東京ビートルズというバンドで」。でも、それが何を意味するのか、当時は、よく分からなかった。

 そのころ、3つ上の兄がたんすの一番上の引き出しに隠してあった厚紙の箱を見つけた。青いシートレコードが10枚入っていた。私たちが手裏剣のように飛ばして遊んでいたら、母にこっぴどく怒られた。

 いま思うと、それは、父が歌っていたという東京ビートルズのシートレコードだったのかもしれない。

 その後、わが家では、東京ビートルズは忘れ去られていた。それが、去年の11月、記憶の隅から強引に引き戻されたのだった。

 自分の部屋のラジカセで、ぼんやりとFMを聞いていた。「続いてのナンバーは東京ビートルズの『抱きしめたい』」。一瞬、放心した後、私は「お父さんだ」と叫んで居間へ走った。

 テレビを見ていた父の腕を取ってラジカセの前に連れて行った。とたんに、父は顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。一緒について来た母はおなかを抱えて笑い出した。

 お前の冷たいそぶり 気も狂いそうな俺さ 俺さ 俺さ

 本物のビートルズの「抱きしめたい」をコピーした、その歌は、赤面するほどへたくそだった。なにしろ、歌詞が日本語なのだ。

 照れて私の目を見られなくなった父の横顔は、その時、30年前、白いトレーニングウエアを着てジャズ喫茶で歌っていた東京ビートルズの「斎藤タカシ」にタイムスリップしていた。

 ■東京ビートルズとは(復刻CD発売時の紹介記事より)
 「東京ビートルズ」を知ってますか?英国のビートルズの曲を、日本語歌詞で歌うという、いい根性をしたバンドである。1964年に結成、ジャズ喫茶やテレビで活躍した。
 「謎健児」なる訳詞者が書く歌詞がものすごい。例えば、名曲「抱きしめたい」は「お前の冷たいそぶり/気も狂いそうな俺さ俺さ俺さ」。「キャント・バイ・ミー・ラブ」は「買いたい時にゃ金出しゃ買える/スカシた色の 車も買える/それでも買えない 友だちだけは」となる。頭がクラクラしそうな曲が、堂々とCDで復活する。AMラジオで流したところ、大好評で「東京ビートルズコーナー」までできてしまったというから、世の中わからない。

 
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