2008年11月27日木曜日

ひと目見せたかった

 私が登場しない、アメリカンコラムの一つの典型的手法である。人をアッといわせるのがニュースの原点だとすれば、米ジャーナリズムは洗練した手法でアッとを繰り出す。

 ミセス・ヴィクトリア・クロウフォードの指は、夕方のそよ風を受けてふっくらと膨らんだライム色のカーテンを探し求めた。カーテンはただの道しるべにすぎなかった。彼女はさらに指を這わせて、窓のしたのコーヒー・テーブルのうえに置いてあるソニーのポータブル・ラジオを探りあてた。

 ラジオのスイッチをオンにする。いちいち局を選択するのにわずらわされたりはしない。いつだってWMCAに合っているからだ。WMCAは、メッツの試合が放送される局。ヴィクトリア・クロウフォードの一日にとって、待ちに待った時間が始まったのだ。

 ラジオからは、ストラウス・コミュニケーションズのコマーシャルが流れている。ヴィクトリア・クロウフォード—彼女は69歳だ–は小さいリヴィジョン・ルームをよろよろと横切って、彼女のお気に入りの、プラスティック・カヴァーがついた大きな黄金色の椅子まで辿りついた。やれやれと椅子に沈みこみ、椅子の肘掛けに両腕をだらんと乗せた。椅子はラジオの正面を向いている。その向こうにはテレビもあるけれど、ミセス・クロウフォードにはもう用なしだ。1962年、彼女のごひいきの野球チーム、メッツが誕生した年以来ずっと、ミセス・クロウフォードは目が不自由なのだ。

 「私、この椅子が大好きなのよ」どこか甘ったるい、高い声でヴィクトリア・クロウフォードは言った。「あの古びたテレビはもう見られなくなったけど、ここに座れば、そよ風を受けながらゲームに耳を傾けることができるんだから」

 ラジオからは<メッツに会おう>というテーマ・ソングが流れてきた。ヴィクトリア・クロウフォードは椅子のなかで前かがみになって、頭をほんのちょっとラジオの方向へ傾かせた。パチパチと手をたたくと、にっこり微笑んだ。

 「私、このテーマも気にっているの」彼女は言った。「いよいよ試合が始まるわ」

 テーブルの真ん中、赤いドレスを着て微笑みを浮かべる若かりし頃のヴィクトリア・クロウフォードの写真の横に置かれたソニーのラジオから、野球の夕べが始まった。

 アムステルダム・アヴェニュー102番地と103番地のちょうど真ん中あたり、フレデリック・ダグラス・ハウジング・アディションの一角にあるアパートには全部で3つ部屋がある。リヴィング・ルーム、キッチン、ベッドルーム。月々の家賃は82ドルで、ミセス・クロウフォードはそれを社会保障で支払っている。社会福祉は全然信用していないと、きっぱり言った。夫が亡くなってもう2年になる。彼女自身は1962年の1月に事故のため、光を失った。最大の楽しみは、ニューヨーク・メッツの試合を聴くことである。もう17年も熱心に続けてきたのだ。その目で彼らのプレイを見たことは1度もないけれど。

 アパートには、各部屋に1台ずつ、計3台のラジオがある。ダブルベッドの脇のナイトスタンドの上には大型で旧式のジュリエット。キッチンの棚のてっぺんには、XAMバンド・ラジオ。アパートのなかを歩きまわっているときも、ミセス・クロウフォードは1球たりとも聴きのがしたくないからだ。そんな彼女だから、きっと、誰よりもたくさんのメッツの試合を聴いてきたことだろう。メッツ最大のファンであることは、間違いない。メッツは彼女の一番の親友なのだ。

「まあ、私が彼らの最大のファンだなんて、とんでもない」と、彼女は言った。「大ファンたちのあいだで有名になるのは嬉しいですけど。だって私、メッツの試合を聴くのが本当に楽しいんですもの」彼女は、まるで気をつけの姿勢をとる審判さながら、背筋をピンと伸ばしてお気に入りの椅子に腰かけている。ガラスのように透明な眼鏡の位置をひょいと直した。ちょっとだけ鼻の方へ滑っていってしまったのだ。

 ラジオでは、スティーヴ・アルバートがメッツとブレーブスのバッティング・オーダーを繰り返していた。もうすぐプレイボールだ。ヴィクトリア・クロウフォードは椅子の袖に乗せた右手の指をぽんぽんとたたきはじめた。

 「私ね、試合をまるで見ているように心に描くことができるのよ」彼女は言った。「彼らがボールを打って、バントを決めて、ベースを盗んで、ランナーをアウトにするのが、まるで目に見えるようなの。それも、これも、アナウンサーのお陰ね。ラジオのアナウンサーがあんなにうまく中継してくれなければ、いくら私でもゲームを見ることはできないと思うわ」

 リンゼイ・ネルソンがいなくなって寂しいですか、と訊いてみた。

 「スティーブ・アルバートだって若いわりにはよくやっているわ」彼女は言った。「でも、やっぱりリンゼイ・ネルソンがいないのは寂しいわ。なんたって、彼の中継は臨場感に溢れていたもの!そうそう、あれは1968年だったわねえ。彼、クレオン・ジョーンズの捕球を中継していたのよ。あれは聴きものだったわよ。彼はこう言ったんだから、クレオンは打球をキャッチするためにフェンスに登らなければなりませんでした、って。ねえ、リンゼイはこう言ったのよ、クレオンの足跡がフェンスにはっきり残っています、って」

 クレイグ・スワンがボブ・ホーナーを三振に切ってとり、ブレーブスの初回の打撃が終わった。「(ウェイン)トウィッチェルがこないだいいピッチングをしたでしょ」彼女は言った。「でも、うちのエースはあくまでクレイグ・スワンよ、間違いなく。彼こそ、切り札なのよ」

 部屋は暗くひんやりしているけど、どこか楽しげである。ときおり、ディスコ・ミュージックがそよ風に乗って、通りの向こうから流れてくる。ヴィクトリア・クロウフォードの左には小さなテーブルがあって、新鮮なフルーツの入ったボウルや胡桃の皿、ペパーミント・スティックの詰まった壺が置いてある。お客様用のカウチの向こうには明るい色調の油絵が一枚かかっている。通りの先に住んでいる娘のジョージーが彼女をギャラリーに連れて行ってくれて、そこに展示してある絵を一枚一枚説明してくれたことがあった。「その中から一番気に入った絵を一枚手に入れたの」彼女は言った。その絵は愛すべきものだった。でも、彼女の部屋で何よりも愛すべき対象は、あのソニーのラジオなのだ。

 マッツィーリがボックスに立った。

 「ツー・ボールね」と、ミセス・クロウフォードは言った。「また歩かせるわよ。こないだの晩だって歩かせたじゃない、でしょ?」水曜の晩の対レッズ戦で、マッツィーリは2度歩かされていた。

 マッツィーリはシングル・ヒットを放ち、メッツが1点をもぎ取った。ヴィクトリア・クロウフォードは椅子からぐっと前のめりになり、倒れないように袖を手で力いっぱい握らねばならなかった。前に敷いてあるグリーンの敷物から足がわずかにずれた。

 彼女は嬉しそうに歓声をあげ、またも頭をラジオの方へ傾けた。

 「タイムリー・ヒットよ!」彼女は叫び声をあげた。「これでマッツィーリをオールスターのチームから締め出すなんて、どうしてできるの?」

 アラバマ州セルマで大きくなった少女時代から、彼女は野球をするのが大好きだった。目が見えた頃は、ブルックリン・ドジャーズのファンだった。彼女によると、ヤンキースはどうしても好きになれなかったという。「なぜって、あのチームには華やかなプレイヤ—があまりいなかったように思うのよ」メッツが誕生した時、彼女は彼らに乗りかえた。以来17年このかた、メッツの試合は彼女の長い1日のいくぶんかを占め続けてきたのである。

 「アル・ジャクソンはいつだって私のお気に入りだったわ」彼女は言った。「リル・アルって、みんな彼のことを読んでいたわ。かつてはバッタバッタと三振を奪ったのよね。そうそう、それにクレオン・ジョーンズとトミー・エージーもすごく好き。あのふたりはアラバマのモビールからやって来たのよ、知ってる?ほうとうに彼らが野球をするなんてねえ。あなた、あのふたりを見たことある?」

 彼女は、夜遅くウェスト・コーストのゲームを聴くのも大好きだという。「1日のうちで、いつ野球を聴いてもべつに違いはないでしょう」淡々とした口調で彼女は言った。ジョン・スターンズの打率は下降気味だけれど、もうまもなく打ち始めると思うとも言った。彼女に負けず劣らず長いことメッツにいる選手、エド・クランプールについて訊いてみた。「まだやれる選手だとは思わないわね。でもそんなことは書かないでね。彼の気持ちを傷つけたくないから」彼女はそう言って笑うと、髪をちょっと撫でた。バスに入ったせいでまだ濡れている。何しろ試合が始まろうとしていたから、乾かす時間がなかったのだ。

 ラジオが彼のスケジュールなのだ。何をするにもラジオの時間にしたがって動いている。よほどのことがないかぎり、ダイヤルをWMCAから動かすことはないという。17年間、ヴィクトリア・クロウフォードは、彼女なりのやり方でメッツの方に手をのばし彼らと触れあうのに、ラジオを利用してきたのだから。

 金曜の晩、お気に入りの椅子に腰かけて、彼女はメッツがブレーブスを2対1で破った試合に耳を傾けていた。ひいきチームがチャンスを迎えたときだけ、ぐっと身を乗り出すようにして。彼女はしみひとつない白いブラウスとプレスのきいたピンクのスラックス、それに黄色の寝室用のスリッパという姿だった。お客さんを振り返っては、何か飲み物でもいかがと訊いていたが、客は、彼女とゲームに耳を傾けているだけで十分だと言った。

 「いいこと」ヴィクトリア・クロウフォードは言った。「私はね、メッツの試合にお客さんが詰めかけてくれるだけで嬉しいのよ。以前はメッツもお客さんでいっぱいになった時期があったわ、でしょ。あの大観衆、あなたも一度見ておくべきだったわね」

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