2009年7月18日土曜日

清志郎さん「ぼくの好きな先生」も弔問

 悲しみは、悲しいと書くのではなく、伝えなければならない。丁寧に手を尽くして。
 
 

 この日午後4時4分、都内の自宅から清志郎さんの遺体を運ぶ車が、密葬会場に向けて出発すると、晴天の上空に虹が2本のアーチを架けた。雨上がりの空でもないのに…。気象庁に問い合わせても「極めて珍しい」という現象は、カラフルなメークと衣装で観客を酔わせた「清志郎ルック」の名残のようだった。

 ひつぎの清志郎さんは喉頭がんを克服して行った08年の日本武道館で着用した、関係者が「これしかない」というピンクのスーツを着ていた。場内に清志郎さんの歌が流れ、遺影は微笑んでいた。午後6時から近親者のみの密葬に親交の深い友人たちも参列した。RCサクセションのギタリストで第一の親友仲井戸麗市は沈んだ表情をサングラスで隠した。坂本も陽水も竹中も険しい顔つきで言葉はなかった。

 悲しみの中、松葉杖をつきながら、清志郎さんに別れを告げたのは日野高3年時の担任教師、小林先生だった。フォークバンド時代のRCが初めて飛ばしたヒット曲「ぼくの好きな先生」のモデルになった美術教師だ。かつて漫画家や画家を目指した清志郎さんが同曲で「劣等生のこの僕に すてきな話をしてくれた ちっと先生らしくない ぼくの好きな先生」と歌った小林先生は柔和な笑顔で「実際は苦しんだか分からないけれど、穏やかに逝った顔だったよ」と、と語り始めた。

 高校を卒業して40年。清志郎さんが慕い続け、最後まで親交が深かった。2月の同高美術部の「OB展」が、最後の対面となった。「病気があるから、元気なうちに話したかったようだ。回復しているように見えたんだけどなぁ…」と無念がポロリとこぼれた。

 清志郎さんは目立たない生徒だったが、気遣いを忘れず「レコードを出したときもね。(モデルにして)『先生に迷惑をかけちゃったかなぁ』って気にしていたよ」と振り返った。職員室より教室でキャンバスに向かうことが多かった小林先生は、体制にこびないパフォーマンスを繰り返した清志郎さんの原点だったに違いない。恩師が当時の顔を思い出しながら「よく頑張った。ゆっくり安め」と、ひつぎの教え子に語りかけるころ、虹が映えた青空に夜のとばりがおりていた。

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