2008年8月26日火曜日
毎日新聞本社の発砲
2008年8月21日木曜日
妻が女児出産、入院中 自宅で夫刺殺される
2008年8月15日金曜日
パリの日本人ギャルソン
「パリの有名カフェが初めて採用した外国人ギャルソン」という人物紹介。スタイリッシュな人物はスタイリッシュに、ニヒルな男はニヒルに、ふざけた野郎は負けないくらいふざけて描く筆力が必要だ。
擬翻訳とでも呼ぶべき表現(伝統を終わらせた、右の指先は賢くなった)でパリの雰囲気を醸し出し、論理(だから、のでなど)や野暮な情報(年収は同世代の商社マンを上回る)を巧みに避ける。「流れるような身のこなし」を描く映画的カメラワークにも注目すべきだろう。
ピカソやサルトルが愛したカフェ・ド・フロール。自由で開放的な伝統とは裏腹に、常勤のギャルソンは「右利きのフランス人のみ」といわれてきた。定員は20人。最長老が四月に引退し、控えから昇格した日本人が19世紀からの伝統を終わらせた。
青山学院大にいた96年、表参道に進出したフロールにアルバイトで入った。大手商社への就職はかなわなかったが、5年続けたギャルソンの身のこなしは作家が書くまでに。パリで勝負したいという思いを本店が受け止め、3年7月からエクストラ(予備要員)で技をみせる機会を得た。
左手の盆に飲み物やグラスを満載し、テーブルの森を回遊する。客をかわす時、盆を支える指が動いてバランスをとる。右手は伝票を配り、10のポケットから瞬時に釣り銭をつまみ出す。左腕は太く、右の指先は賢くなった。
「たぶん脳は使わない。段取りなど考えず、肉体が無駄なく流れるのが快感です」
サービス業よりスポーツ選手に近い。あとはホストとソムリエの要素が少し。常連客がタバコを挟む手を知り、灰皿の位置が決まる。終業時、その日接客した約百組の注文を復唱できる。10−20卓をまかされ、飲食代の15%とチップが全収入。同世代の商社マンより豊かかもしれない。
「観光客には昼のテラスが人気ですが、常連が増える夜の室内席が好き。この店本来の、濃い空気がある」
2008年8月14日木曜日
五輪讃歌
五輪開会式は美文調で理念を歌い上げる、現在のジャーナリズムでは稀な機会だ。その是非はさておき、文体のバリエーションとして各国の本記を拙訳(文体紹介なので意訳をしません)で紹介する。
百年の夢がきょうかなう(新華社)
百年の五輪夢、その夢がきょう叶う。今晩、幾億の中華青年男女の知恵と熱望を傾注した第29回夏季オリンピックの開幕式が、全世界に向け、その神秘のベールを脱ぎ捨てるとき、神州大地の万民は喜びに沸いている! 天安門広場で、鳥の巣で、雪の高原で、砂漠の極北の村で、四川大地震被災地区の被災民キャンプで、至る所、風を受けて翻る五星紅旗、至る所、「頑張れ中国、頑張れ五輪」の歓声。わき上がる群衆、中国と国旗のマークを顔に描き、五星紅旗と五輪旗を振る都市農村の群衆は、オリンピック精神が中華の大地に発揚し、改革開放の中で聳えたつ中国の進歩・解放の証左となった。
「中国頑張れ、五輪頑張れ」は最も熱烈な祝福の言葉だ。
夜の帳が降りた北京天安門広場は宝石のように輝き人を惑わす。花は海のごとく、灯火は星のごとし。人の波がわき起こる。
天安門広場の東、国家博物館前にそびえる立つ五輪逆算時計が歴史を刻む。「10、9、8、7・・・2、1」。人々が声を揃えてカウントダウンするなか、1417日の赤い数字が点滅した。2008年8月8日夜8時、突然動きを止め、ゼロになった。その刹那、歓喜の声がわき起こり、平素相知らぬ人々が互いに手を打ち慶事を祝った。
「世界の注目を集めるオリンピックが初めて中国の歴史ある地で盛大な幕を引き開く。中華民族百年の夢が現実になる。どうして感動しないでいられようか」と68歳の男性が言う。
今晩の天安門の城郭はこと更に荘厳と光輝を増す。無数の提灯が、天安門の輪郭を金色緑色に輝かせている。城郭の上の国章が黄金に光る。
天安門広場には黄色い肌、白い肌、黒い肌が寄り集まり、歓喜の奔流となった。(以下省略)
文化と希望でゲームが始まる(ニューヨークタイムズ)
20世紀最後の冬季五輪は、きょう、国際平和と兄弟愛の理想主義的希求を広める、日本文化の簡素かつ伝統的な祝いで幕を開けた。
アメリカのイラク攻撃が迫るなか、国際オリンピック委員会会長はすべての国に16日間の五輪期間中の停戦を求めた。
サマランチ会長は、IOCによるオリンピック停戦のアピールが、人類の悲劇に終止符を打つ努力として、国際対話と外交的解決を醸成することを願うと述べた。
72国2450人の選手が南スタジアムに入場した後、尊敬されている日本人フィギュアスケート選手、伊藤みどりが聖火を点灯した。2時間の開会式の約20分は、ベートーベン「歓喜の歌」の演奏にあてられた。
ベートーベンの第九交響曲のクライマックスは、近代五輪の父とされるフランス人、クーベルタン男爵の希望により、すべての五輪で演奏される。しかし、今日の演奏は、音楽的にも技術的にも高度な名人芸を体現した、とりわけ野心的なものだった。
白い空の下、5万人の観客が壮大な日本アルプスに囲まれた競技場を埋めるなか、人工衛星でリンクした5大陸のコーラスによって歌われた「歓喜の歌」は、絡み合う五つの輪を象徴した。ボストン交響楽団総監督の小沢征爾は、ニューヨーク、ベルリン、北京、シドニー、南アフリカのケープ岬にいる200人の合唱団を指揮した。コーラスは、長野県文化会館の90人、開会式会場の2000人の合唱団と時間差技術で繫げられた。
舞台を取り巻く80人のバレーダンサーと演奏は、かりそめにせよ、人類皆兄弟という、交響曲の理想、五輪の理想に首肯する気持ちにさせるものだった。
統一と調和を21世紀に、というテーマは開会式を通してこだました。聖火は英国の反地雷運動家、クリス・ムーンによって会場に運び込まれた。右手と右脚を失ったため、左手でトーチを掲げたムーンは、子供たちに囲まれてアリーナを回った。
空に放たれた、鳩の形をした約2000個の風船には、長野の子供が書いた平和のメッセージが添えられている。戦後三度目の五輪に込められたメッセージは、平和友好の未来を押し進めることで、侵略主義の過去を清算したいという日本の願いだ。(以下略)
五輪100年、新世紀へ(朝日)
風がやんだ。
蒸し暑い盛夏は、夜になっても客席に火照りを残した。八万人の観衆で埋まった五輪スタジアムは、この夜、地球で唯一最大の脚光を浴びる舞台となって、南部ジョージアの暗く濃い闇にきらめいた。
近代五輪が始まって百年。地球の一点に初めて集まった全百九十七の国と地域の代表は、日指しに刻々と色合いを変える大河のように、華やかにスタジアムに繰り出してきた。
先頭に立って入場してきたのは、古代五輪の聖地ギリシャの選手団だ。クーベルタン男爵の提唱で、百年前に復活した近代五輪の開催地はアテネだった。その時参加したのは、わずか十三カ国、三百人足らずの選手にすぎなかった。
パリ。セントルイス。ロンドン。小さな泉から発した近代五輪は、世紀を越えてせせらぎとなり、回を追うごとに支流を集めて川幅を広げた。だが、その流れは平穏でなかった。
「近代五輪の百年は、危機の歴史だ。何度も消えそうになり、その度に不死鳥のようによみがえった」
夏冬を通し、今回で二十一度目の五輪に臨んだ国際オリンピック委員会の清川正二名誉委員は言う。
一九一六年の五輪は第一次世界大戦で中止に追い込まれた。三二年ロサンゼルス大会百㍍背泳ぎで優勝した清川氏は、三六年ベルリン大会でも銅メダルを得た。
「聖火リレーや壮大な開会式が行われ、五輪が国家イベントになったのは、ベルリン大会からでした」
開会を宣言したのは、褐色の制服に身を包むヒトラーだった。戦火の中で四〇年東京、四四年ロンドン大会もまた、返上、中止に追い込まれた。
戦後も、五輪は政治の陰に覆われ、揺らぎ続ける。
五六年夏に開かれたメルボルン大会は、ハンガリー動乱をめぐって緊張した。水球の準決勝でハンガリー、ソ連の選手が乱闘し、プールを血で染めた。
テロに血塗られた七二年ミュンヘン大会。ソ連尾アフガニスタン侵攻で西側がボイコットしたモスクワ大会。八四年ロス大会は、その報復として東側が不参加だった。
冷戦が終わり、国連加盟国よりも多い国々が、ともかくも一つの場所に会した。それだけで、五輪が百年を長らえた意味はある。
「見てほしい。政府はないが、国と旗は残った」
開会式の前、そう語っていたかつての内線の血、ソマリアの選手団が会場に姿を見せた。
「毎晩、眠る前に思った。明日の朝、目覚めることはもうないだろう、と」
四年間を内戦下のサラエボで過ごした射撃のネザド・ファスリャ選手はこの夜、ボスニア・ヘルツェゴビナの旗の下で行進した。戦争で二人の叔父と祖母を失い、親友が殺された。
「どうか平和を守ってほしい。僕が世界に言いたいのは、それだけだ」
砲撃下でも、毎日走り続けたマラソン選手がいる。戦火でボートを失った漕艇選手が、手を振っている。
晴れやかな顔。背筋を伸ばした選手たち。この夜、彼らに地球最大の舞台を提供した「南部の首都」アトランタもまた誇らしげだ。
街の紋章は不死鳥だ。南北戦争のさなかの一八六四年、北軍の侵略によって焦土となった悲劇から立ち直る象徴だった。
だが、その後も南部の黒人は、酷薄な道を歩んだ。
「百年後の今年、世界がアトランタを五輪開催の地に選んだことには、格別の意味があるのです」
南部キリスト教指導者会議のジョセフ・ローリー会長は言う。米最高裁が「人種による隔離をしても施設が平等なら合憲」として、差別を追認したのは一八九六年。近代五輪が産声を上げたのはその年だった。
水飲み場や食堂、バスの座席さえも肌の色で隔離する政策を覆すには、一人の指導者が必要だった。この街に生まれたマーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、非暴力で公民権法を勝ち取りノーベル平和賞を受けた。東京五輪が開かれた一九六四年のことだ。
「アトランタはまだ途上にある。だがこの町が百年をかけて人種融和に努力し、多くの障害を越えてきた現実を、世界に見てほしい」。暗殺されたキング牧師の腹心で、五輪招致を進めたアンドルー・ヤング前市長は話す。
今回の五輪では、ゴルフを正式種目にして、名門オーガスタで開催しようとする動きがあった。だが、クラブが黒人に会員の門戸を閉ざしていることが問題になり、立ち消えになった。
ヤング氏がいうように、人種問題の解決には、まだ時間がかかる。だが、この町が、人種平等を掲げたキング牧師の言う「夢」を老い続けてきたのは事実だ。
「五輪の聖火が人から人に受け継がれるように、私たちも次の世代に、心の尊厳を伝えましょう」
開会式前の日曜日、かつてキング牧師が主宰したエベニザー教会の礼拝で、黒人女性は静かに呼びかけ、拍手を浴びた。
政治の陰が払われた代わりに、今回の五輪で目立つのは商業主義だ。東側が威信をかけて育成した「アマチュア選手」は姿を消した。だが企業の女性がなければ、選手は世界の水準に追い付けず、大会も開けないほど五輪は巨大化した。
しかし、人間が千分の一秒の壁を破ろうとするとき、金は無力だ。すがすがしい風を残して駆け抜けた数々の選手たちは、そう私たちに教えてくれた。
この百年をかけて、人類は男子百㍍走の五輪記録を2.04秒縮めた。三段跳びで、4.46㍍だけ遠くに着地した。ささやかかもしれない。だが、ともかくも人は限界を超え、未知の世界に一歩足を踏み入れた。
より速く、より高く、より強く。
しなやかな筋肉の力動。優美な曲線の軌跡。疾走する影たち。私たちはこれから始まるドラマを、固唾をのんで見守るしかない。見守ることの幸せを、いまはそっとかみしめよう。
2008年8月9日土曜日
田中角栄死去
田中角栄死去の評伝。筆者は現在最も格調高くハイブローな原稿を書く政治記者。時代を象徴する出来事、人物を表する場合、書き手の歴史観・政治観の水準が露見する好例だ。書き出しと最終段落を絡めるのは、逆三角形にする必要のない評伝の基本作法。
どこか、浪花節のような「影を慕いて」だった。自分の世話で就職した人たちとの懇談会に出かけた首相・田中角栄氏は、懐かしそうに歌った。
昭和九年三月、雪国新潟の寒村から上京した時、この歌が街を流れていた。住み込み店員から土建業で身を立て、戦後の政界で出世、そして刑事被告人なった生涯は、昭和動乱のひとつの象徴だろう。
この人ほど自民党政権の光と陰を体現した政治家はいない。
昭和二十年代、矢継ぎ早に手がけた国土開発の議員立法。蔵相、幹事長などほぼ政権主流にあって、高度成長を促す経済運営に組みした。「日本列島改造論」には出稼ぎ解消、格差の是正を込めていた。高速道路、新幹線の整備はいわばゴールだった。日中国交回復は戦後外交の大きな区切りとなった。
「政治は生活だ」というのが演説の枕詞だった。前のめりともいえる経済至上主義は、物的な欲望を刺激し、日本の繁栄を演出した。が、時として抑制が利かず、狂乱物価に国民の不満が噴き出し、政敵福田赳夫氏の追及を受けた。「政治とカネ」をめぐるスキャンダルがまとわりついて、もう一人の政敵三木武夫氏の挑戦を受けた。
炭坑国管事件に連座(二審で無罪)、「金脈」による首相退陣、そして首相の犯罪ロッキード事件の発覚。カネの力を信じ、派閥を養い、党内支配権を築く金権政治は、自民党政権を内側から崩した。
この人の権力への思いは、デーモン(悪魔的なもの)を感じさせた。ロッキード事件後にむしろ、田中派の膨張に腐心し、「数」の力で歴代首相の選出に関与した。「やみ将軍」といわれ、「田中支配」と疎まれる不正常な権力状態をつくった。
「自民党の七割は俺の人脈」「総理総裁は帽子だ」。われこそはミスター自民党だという自信は、利権やら派閥やら、地方権力やら業界やら、現実政治をめぐるどろどろした人間関係に裏付けられていた。強力な政治力で裁判に対抗、復権しよう、という錯覚もあったかもしれない。
常ならぬ権力は、クーデターを呼ぶ。世代交代を阻まれた金丸信、竹下登氏らは、田中派の主力議員を奪って、反旗を翻した。元首相は怒り、病に倒れ、再起できなかった。田中支配から竹下派支配へ金権の呪縛は深化し、政官財を闇の力とカネでつないだのは、この人の罪だった。
にもかかわらず、「角さん」はたぐいまれな明るいカリスマ的魅力の持ち主だった。人を気遣い、冠婚葬祭を重んじた。権力の階段を上っても、民衆の匂いが染み付いていた。
選挙区新潟三区は、戦前、小作争議が激しかった。東京で成功した農家のアニが「若き血の叫び」を旗印に選挙に出た時、旧支配層に抵抗した農村指導者が陣営に流れ込んだ。これらの人々が、戦後保守の草の根になる。
後援会・越山会は、アニを「盟主」と呼んだ。そこには、公共事業による利益誘導だけではない交情があったことを否定できない。ロッキード有罪判決後の危機を、二十二万票で支えた。「これは百姓一揆だ」と盟主がつぶやいたのが耳に残る。
吉田茂、池田勇人、佐藤栄作らの懐に飛び込んで出世をつかんだエネルギーと卓抜な世間知。角栄門下で政治闘争の裏表を学んで、小沢一郎、羽田孜、細川護煕の各氏ら次代の政治家が育った。角栄世代の戦後政治はいま、彼らに変えられようとしている。
「田中角栄」は、人々が都会に向って人生をしゃにむに切り開こうとした「上り列車の時代」の英雄だったのかもしれない。
2008年8月7日木曜日
赤塚不二夫弔辞
新聞記事ではないが、「他人の言葉」や手垢のついたフレーズが全くない。その人しか書けない出来事を具体的に紹介し、弔辞として、故人の人となり、功績を客観的、歴史的に位置づけている。
8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。
終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。
しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。
赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『このやろう逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰(or 意味)の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。
いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。
私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義